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楽しいものはない筈であつた。今までにも彼は何度も子供たちを面会に連れて行つたことがあるが、面会だよ、と一言言ふが早いか、彼等の顔はつつみ切れない喜びであふれ、どうかするときまり悪さうに顔をあからめたりするほどであつた。彼はさういふ子供の可憐な喜悦の表情を予期してゐたのであるが、太市は信じられぬとでもいふ風に合点のゆかぬ眼ざしである。しかし考へて見れば、他の子供には毎月に一度、すくない児でも年に一度はこの楽しみを持つてゐたのであつたが、太市は今までただの一度もこの経験を持つてゐないのである。この病院へ来る時も警察の手を渡つて来たといふ。

「太市、お父さんかもしれないよ。」

 と、鶏三は太市の気を引き立てようと思つて言つてみた。

「お父さんは死んだい。」

 鶏三はぐさりと胸を打たれた思ひであつた。が急に太市は独りで歩き出した。顔には他の児と同じやうに喜びの表情が見える。鶏三も嬉しくなつて、

「お母さんかな?」

 と、太市に傘を差し伸ばしてやりながら言ふと、少年は答へないで一つこつくりをするのであつた。

 しかし期待は裏切られ、面会室の入口まで来るやいなや、太市は釘づけにされたやうにぴたりと立停つてしまつた。

 室の中にはもう七十近いかと思はれる老人が、椅子に腰をおろしてゐたが、子供の姿を見ると腰を浮せ、しよぼついた眼を光らせて、

「おお。」

 と小さく叫んで、患者と健康者との仕切台の上に身を乗り出して来た。

「さあ上りなさい。」

 と鶏三は太市に言つて、自ら先に上つて老人に軽く頭を下げ、振り返つて見ると太市はやはり入口に立つてゐるのであつた。その顔には恐怖の色がまざまざと現はれてゐる。鶏三は怪しみながら、

「どうしたの、さあ早く。」

 と太市の手を摑まうとすると、少年はさつと手を引込めてしまふのである。

「太市。」と老人が呼んだ。「おぢいさんだよ、覚えてゐるかい。」

 老人はもうぼろぼろと涙を流してゐるのであつた。と突然太市はわつと泣き出すと、いきなり入口の柱にやもりのやうにしがみついて、いつかな離れようとしないのであつた。鶏三が近寄つて離さうとすると、少年は敵意のこもつた眼で鶏三を見、老人を見て、その果は鶏三の手首にしつかりと嚙みついて、

「イ、イ、イ」

 と奇怪な呻声と共に歯に力を入れるのだつた。さすがに鶏三も仰天して腕を引くと、太市はぱつと柱から飛び離れて後も見ないで駈けて行つてしまつた。

 老人はむつつりと口を噤んで、下を向いたまま帰つて行つた。鶏三が何を訊ねてみても老人は黙つてゐる。ただ、ああ、ああ、と溜息をもらすだけであつた。


 しかし間もなく鶏三は太市の身上に就いてほぼ知ることの出来る機会が摑めたのであつた。

 少女たちとかくれんぼをした日から四五日たつたある夕方、涼しくなるのを待つて彼は少年たちを連れて菜園まで出かけたのである。そこからは遠く秩父の峰が望まれ、広々とした農園には西瓜やトマトなどが豊かに熟して、その一角に鶏三の作つてゐる小さな畠もあつた。

 子供たちは𧒂螽いなごのやうにばらばらと畠の中に飛び込んで行くと、忽ちばけつや目笊などに自分の頭ほどもある大トマトがいつぱい収穫されるのであつた。

 鶏三は麦藁帽子を被つて畠に立ち、

「幹を痛めないやうに、鋏でていねいに切つて……青いのは熟れるのを待つこと……。」

 などと叫んだ。

「やい、カル公、そいつあ青いぢやないか。」

「ばかやろ、青かねえや、上の方が赤くなつてらあ。」

「すげえぞ、すげえぞ、こいつは俺が食ふんだ。」

「やッ蛇だ、先生、先生、蛇だ。」

 子供たちはわいわいと言ひながら畠の中を右往左往するのだつた。

「先生、西瓜とつちやいけないの?」

「西瓜はまだ熟れてゐないやうだね。」

「熟れてるよ、熟れてるよ。」

「どうかね。もう二三日我慢した方がいいやうだね。」

「ううん、先生熟れてるんだよ。カル公と、向うの紋公とが熟れてるんだよ。」

 鶏三は思はず吹き出して笑ふと、

「ぢや、その二つを収穫しよう。」

 子供たちはわつと喚声をあげると、収穫だ、収穫だと叫びながら、その二つを抱へて来た。西瓜には一つ一つ