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Page:HōjōTamio-A Song Longing for Home-2002-Kōsei-sha.djvu/3

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 木々の間を潜りながら彼女等は叫ぶのだつた。


 鶏三はふと人の気配を感じた。彼をさがして歩く女の児のそれではないことは明かである。小さな森のやうに繁つた躑躅つつじの間に身をちぢめてゐた彼は、首を伸ばしてあたりを眺めてみたが、それらしい姿は見当らなかつた。陽はもう沈んでしまひ、南空いつぱいに拡がつた鱗雲だけがまだ黄色く染つて明るかつた。地上はもうそろそろと仄暗く、鶏三を撫でる草は、露を含んで冷たくなつてゐた。先生、先生と呼ぶ子供たちの声が山の上から聴えて来たが、鶏三は立上らうともしないで、じつと耳を傾けた。人の気配がするばかりでなく、彼は奇妙な歌とも呟きともつかない声を聴いたのである。好奇心を動かせて再び伸びあがり、山裾の方を眺めてみると、木の葉の陰に太市が一人でじつと坐つてゐるのだつた。そこからはかなりの距離があつて、歌声はよく聴き取れなかつた。それに木の葉が邪魔になつて、はつきりと姿を見定めることも出来ないので、彼は相手に気づかれぬやうに注意深くにじり寄つてみた。もし彼が近寄つて来ることを知つたなら太市は直ぐに逃げてしまふやうに思はれたのである。逃げ出さないまでも歌は決して唄はぬであらう。

 鶏三は今まで太市が遊んでゐる姿を殆ど見たことがなかつた。大勢が一団になつて遊んでゐるところには太市は一度もゐたためしがなく、何時でもどこか人の気づかぬところで独りで遊んでゐるのだつた。学園などへも殆ど出ず夜が明けるが早いか子供舎を抜け出して、腹がかなければ何時までも帰つて来なかつた。子供たちも別段彼を嫌つてゐるといふ訳ではなく、また太市も部屋の仲間に悪感情を持つてゐるといふ訳でもないらしかつたが、性格的に孤独なためか、それとも頭の足りないためか、みんなと歩調を合はすことが出来ないらしいのであつた。勿論知能の発育はその肉体と共に不良であるのは明かである。

 年は今年十三になるのだが、後姿などまだ十歳の子供のやうにしか見えなかつた。顔はさながらしなびた茄子のやうに皮膚が皺くたになつてゐ、頭髪はまんだら模様に毛が抜けてゐる。これでも血が通つてゐるかと怪しまれるほど顔も手足も土色であつた。鶏三が初めて太市の異常なところに気づいたのは、太市がちやうど熱を出して寝てゐる時であつた。太市はたいていの熱なら自覚しないで済ませてしまふらしかつたが、この時はぐつたりと重病室の一室で眠つてゐたのである。かなりの高熱であつたに違ひなかつた。見舞ひに行つた鶏三は一目見るなり老いた侏儒こびとの死体を感じてぞつとしたのであるが、そこには生きた人間の相は全くなかつた。と、突然太市の乾いた白い唇が動き始め、やがて小刻みにぶるぶると震へるのであつた。何か必死に叫ばうとしてゐるらしいのである。鶏三は我を忘れて、太市、太市、と呼んでみた。そのとたんに太市は、ヒイ、ヒーと奇妙な叫声を発してむつくり起き上ると、枯枝のやうな両腕を眼の高さまでさしあげて、来る何ものかを防がうとする姿勢になつた。

「かんにんして、かんにんして――。」

 と息もたえだえに恐怖の眼ざしで訴へるのであつた。恐らくは、あの小さな心につきまとつて離れぬ異常な記憶に脅かされてゐるのであらう。子供たちの話では、発熱しない時にも三日に一度は真夜中に奇怪な叫声を発したり、さうかと思ふとしくしくと蒲団の上で泣いたりするとのことであつた。

  つくつく法師なぜ泣くか

  親もないか子もないか

  たつた一人の娘の子

  館にとられて今日七日

  七日と思へば十五日

  十五のお山へ花折りに

  一本折つては腰にさし

  二本折つてはお手に持ち

  三本目には日が暮れて……


 太市は草の上に坐つて胴を丸め、両手で山の斜面に穴を掘つてゐた。歌声と調子を合せて上体を揺りながら腕を動かしてゐる様子は、土人の子供が無心に遊んでゐるやうなロマンチックな哀感があつた。鶏三は暫くじつと太市の様子を観察しながら、こんなところでこんな歌を呟いて遊んでゐるさまに意外な気がすると共に、また何か思ひあたつた思ひでもあつた。彼はその歌の調子や規則的に揺れる体によつて、今太市が全く無我の境にゐることを察した。穴を掘ることも、始まりは蟻の穴を掘るとか蚯蚓みみずを取るとかいふ目的があつたのであらうが、もうさうした最初の目的は忘れてしまつて、ただ歌の調子をとるために意味もなく掘り続けてゐるに相違なかつた。多分頭の中にはこの歌によつて連想される数多くの思出がいつぱいになつてゐるのであらう。