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ことには帰りやせんぞい。たとへあいつが嫌ぢや言うても、わしは一目見たいのぢや。遊んどるところでもええ、見せてくれんかの、頼みぢや。」

 この頼み通りにならんうちは決して動かないぞ、とでもいふ風な老人らしい一こくな表情で言葉を切ると、つめ寄るやうに鶏三をみつめた。

 相手の表情にけおされて鶏三は立上ると、

「それぢや運動場へでも行つてみませう、ひよつとしたらあの児もゐるかも知れない。」

 と言つて老人を外へ連れ出した。がそのとたん、面会室の窓下にぴつたり身をくつつけて内の様子を窺つてゐたらしい一人の少年が、蝙蝠かうもりのやうにぱつと飛び離れると、二人の眼をかすめるやうに近くの病舎の裏に隠れたのが見えた。

「あつ太市、こりや、太市。」

 と老人は仰天した声で叫ぶと、よろけるやうな恰好で駈け出した。と、校舎の角から不意に太市の小さな顔が出たかと思ふと、またすつと引込んでしまつた。鶏三も駈け出しながら、

「太市、太市。」

 と呼んだが、もう音も沙汰もなかつた。二人がその舎の裏に廻つた時には、はや太市の姿はどこへ行つたか全く見当もつかないのであつた。老人は暫く未練さうにあちこちを覗いてゐたが、

「ええわい。もうええわい。」

 と怒つたやうに呟いて、首を低く垂れて帰り始めた。

「またいらして下さい。この次にはきつと会つて話も出来るやうにして置きますから。」

 と鶏三は言つた。彼は今の太市の姿に強く心を打たれたのである。老人はもうなんとも言はなかつた。そして握りしめてゐた手拭に初めて気づいて、あわてたやうに腰に挟みかかつて、

「わしが悪いのぢや。」

 と、一言ぶつりと言ふのであつた。

 子供舎では、学園から帰つて来た連中が思ひ思ひの恰好で遊んでゐた。廊下にはラヂオが一台取りつけてあつて、その下に小さい黒板がぶら下り、

 十月二十八日(木曜)六時起床。

 朝、一時間勉強すること。

 今日の当番、石田、山口。

 などと書きつけてあるのが見えた。部屋の中には北側の窓にくつつけて机が並べてあり、二三人が頭を集めて雑誌の漫画を覗いてゐる。中央にはカル公と紋公とが向き合つて、肩を怒らせて睨み合つてゐた。

「槍!」

 とカル公が叫んだ。

栗鼠りす!」

 と紋公がすかさず答へた。

「するめ。」

 とカル公が喚いた。

「目白。」

 と紋公が突きかかつた。

「ろくでなし!」

「しばゐ!」

「犬。」

盗人ぬすつと。」

「盗賊。」

「熊。 |

「豆。」

「飯。」

「鹿。」

「カル公。」

「なにを!」

「バカ野郎、なにをつてのがあるけ。やいカル公負けた、カル公負けた。」

「なにを! 負けるかい、負けるもんか。もう一ぺん、こい。」

「やあい、カル負け、カル負け、カル公負けた。」

 紋公はさう怒鳴りながらばたばたと廊下へ駈け出した、カル公は口惜しさうに、

「やあい、もう一ぺんしたら負けるから逃げ出しやがつた、やあい弱虫紋公。」

 と喚きながら紋公の後を追ふと、もう二人は仔狗こいぬのやうに廊下で組打ちを始めるのであつた。

 門口まで老人を見送つて急いで子供舎までやつて来た鶏三は、部屋に太市がゐないのを確めると、そのまま自分の舎の方へ歩き出したが、ふと立停つた。そしてちよつと考へ込んだが、すぐ太市を捜しに林の方へ出かけることにした。心の中にはさつきの老人の姿がからみついて、彼は暗澹たるものにつつまれた気持であつた。あの老人はこれから後どうして行くのであらう、あの口ぶりでは世話をしてくれる者もゐないらしい。養老院へ這入るのもさう容易ではないとすると、それなら乞食をするかのたれ死ぬか、恐らくはこのいづれかであらう。