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い、同時に二本の道を歩くことは絶対に許されてゐない。彼はこれを恐怖の念なしには考へることが出来なかつた。俺は、こんな風に定められてしまつた、この神経痛がやむ頃には指が曲つてしまふだらう、やがて足の自由も利かなくなつてしまふだらう、さうなればもうお終ひだ、いや、癩になつた時もう俺はお終ひになつてしまつたのだ、死ぬまでこんなどん底から抜け出ることは出来ないんだ、死ぬまで――。そして彼は憎悪の念をもつて父の姿を描いた。かうなつてしまつたのもみな父の責任だ、と彼は思ひ切つて断定することが出来なかつたが、しかし父を考へる度につきまとつて来る憎悪は、どうしても取り除くことが出来ないのだつた。

 ずきずきと両腕が疼き始めた。続けざまに服んだアスピリンが汗になつてだらだらと全身に流れ出してゐる。この汗の中でまた朝までの幾時間かを過さねばならぬであらう。彼は両腕を注意深く腰の両側に置いて、眼を閉ぢて固く唇をひきしめた。

 ふゆ子がやつて来た。洗濯物を抱へて彼女は這入つて来ると、見舞ひの人々の間を、幾度も頭を下げながら兄の枕許に立ち、

「あにさん。」

 と先づ声をかけた。これによつて彼女は佐吉が不機嫌であるかどうかを試して見る習慣であつた。機嫌の悪い時には、彼は返事をしようともしないで、急に額に皺をよせたりする。すると彼女は、神経痛がひどいのであらうと思つて洗濯物を枕の横に置いて黙つて帰るのだつたが、一歩病室から外へ出ると、不意にぼろぼろと涙が出て来たりして、彼女は自分でも判断の出来ない気持になつた。彼女は肩の竦まつてしまふやうな孤独を感じるのである。しかし佐吉はふゆ子に対しては優しい気持で、いたはつてやりたいとさへ思つてゐた。とりわけ自分よりも病齢の多い妹は、それだけまた病勢も進んでをり、その病勢のため失つた恋愛などを思ふと、彼は妹がひどく不幸に見えた。その男はこの春病気の軽い女と一緒にここを逃げ出してしまつた。彼女はその時少しも泣かなかつたが、それ以来佐吉は妹の顔に力が失せ、体全体の線が細くなつて行くのを感じた。

 ふゆ子には、しかしどうしても兄の気持を理解することが出来なかつた。例へば、どんなに面白さうに話し合つてゐたりする時でも、父の姿さへ見ると忽ち顔を険しくして、ふゆ子にさへもろくに口もきかなくなる兄の心は、芯から父を憎んでゐるのであらうか、彼女はさういふ時、ぞつと背中が冷たくなるほど兄の心が怖しくなつたが、しかしどうして兄が父を憎んだり出来るのか、彼女には全く不可解であつた。子が父を憎むなんて、と彼女は考へる。自分の兄がどうしてそんな悪人であらう、そんなことはない、そんなことはない、と彼女は強い心で否定する。子が親を憎むなどといふことはたうてい出来ないことだ、と彼女は本能的に思つてゐるのであつた。それにお父さんだつて、やつぱり同じ病気だもの、あにさんだつてそれを考へない筈がない――。

「うむ。」

 と佐吉は重さうに返事をした。そして黙つて起き上ると、両腕を彼女の前に差し出した。解けかかつた繃帯の間から、汗に濡れたガーゼが首をのぞかせて、ぷんと臭ひが鼻を衝いた。

「巻きなほしてくれ。」

「さきに寝衣を着更へて、それから――。」

「さうか。」

 と佐吉はすなほに着てゐるものを脱いだ。ふゆ子は抱へてゐた洗濯物を置き、その中の一枚を拡げて、湯気を立てて冷えてゆく兄の体を素早くつつんだ。

「シヤボンの匂ひがする。」

 と佐吉は着物に腕を通しながら言つた。腕を通すのはなかなか困難で、ちよつとでも関節を曲げるとじくりと痛んだが、鼻孔に流れ込んで来る石鹼の匂ひが、新鮮なものに触れる喜びを与へた。

「いくらか、いいの?」

「うむ。ちよつとはいいやうだ。」

「ガーゼを温めて来るから、待つてね。」

 ふゆ子は一抱への三等ガーゼを持つて、火鉢の横へ温めに行つた。佐吉はふと彼女が発病した頃のことを思ひ出し、その頃女学校の白い線の這入つた水兵服を着てゐた彼女が、かうした癩療院に何時の間にか慣れて何の気もなく薄黒いガーゼを抱へて行く、彼は信じられないものを信じてゐるやうなちぐはぐな気持を覚えた。水兵服を着てゐた時も、またガーゼを抱へてゐる彼女も、同一のふゆ子であるといふことがなんとなく奇妙な気がしたのである。病勢は進行を停止してゐるやうであるが、それでも色が白人のやうに白く、眉毛がない。

 発病した頃、彼女は毎夜のやうに悪夢を見、夜中に唸つては母に起された。また不意に家を抜け出して帰つて来ないことも二度ばかりあつた。警察の手をわづらはす前に彼女はぼんやりと帰つて来たが、二度共自殺をしよ