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うとしてゐたのであつた。彼女はしかし今その時のことを思ひ出しても、どんな気持であつたのか的確に思ひ浮べることは出来ない。それは脳漿が濁つてしまひ、夜と昼との判断を失つてしまつたやうな状態とでもいふより他に言葉はなかつた。十六歳といふ少女の繊細な神経が、病気をどういふ風に受けたのか、佐吉には全然考へて見ることも出来ないが、しかし彼女の姿を眺めてゐると、よくその神経がバラバラに砕け散つてしまはなかつたものだと、一種の驚きを感ぜずにはゐられなかつた。

 見舞ひに来た人々もやがて帰つてしまひ、病室内は静かになつた。

 ふゆ子は、部屋の真中に出された大きな火鉢の前で腰をかがめて、ガーゼを火の上にかざした。そして時々入口の方を眺めて、もう父が来さうなものだと思つた。佐太郎の発病を知つたら、兄はどんな気持になるだらう。彼女は父が兄に向つて佐太郎のことを言つてしまつた瞬間を考へてみようとしたが、二人の顔にどんな表情が現はれるか、彼女には判らなかつた。けれども、彼女は、その時は恐しい気持を味ふに違ひないと思つて、不安になつた。それでは父が来るさきに自分が言つてしまはうか、とも思つたが彼女はそれも出来ないやうな気がした。

 ガーゼが温まると、彼女は先づ古い繃帯を解いてやつた。久しく陽の目を見ない兄の腕は、すつかり細く白くなつて、静脈が無気味なほど青く脹れてゐた。佐吉は腕の裏表を眺めながら、

「やせたなあ。」

 と言つた。しかし、その滑かな肌理きめの内には、若い血が流れてゐる。佐吉は妹の白い頸を眺め、彼女の青春が強く心を打つて来た。彼は自分の若さを感じてゐたのである。

 巻き終つた時、入口が開いた。ふゆ子は思はずびくッとし、二三歩そちらへふみ出した。佐七は視線を落し、うつむき加減に這入つて来た。ふゆ子はちらりと兄の顔を見た。佐吉は父の顔を見たのか見ないのか、もう蒲団を被つて横になつてゐた。

「どうだ、いくらか良いか。」

 と父は意外に明るい声で言つたので、ふゆ子はほつとし、兄の返事が待遠しかつた。苛々するほどであつた。

「うん。」

 と佐吉は、無理に咽喉のどから押し出すやうな声であつた。彼は眼をつぶつたまま、また明るさうな声を出してゐる、と思つて、その声の響きの底にあるおどおどしたものをすぐさま感じた。すると父が不思議なほど気の毒に思はれ出して、

「大分良いが、まだ――。」

 と言つてしまつた。がさういふ自分の声が耳に這入つて来ると、すぐさま嫌悪が突き上つて来た。しかしその嫌悪感の中に、ゆらりと閃いて通り去つた、嫌悪する自分を更に嫌悪するもう一つの心の破片には、彼は気づくことが出来なかつた。話が途切れさうになつたので、ふゆ子は、

「今繃帯を取り換へたのよ。兄さんとても痩せたのよ。」

 兄の返事が彼女の心を明るくしてゐた。彼女はけんどんの中から湯吞など取り出して茶の用意をした。

「お父さん、お茶のむでせう。」

「いつぱい飲まうか。」

 彼女は火鉢のところへ湯をぎに行つたついでに、小さな腰掛を持つて来た。義足の父はどつこいしよ、と呟いてそれに掛けた。

あにさん、お茶どう?」

「たくさん。」

 兄の言葉は彼女の心に冷たく響いて、彼女のいくらか弾みかかつた気持は一度に折られてしまつた。親子が揃つてお茶を飲んだり、話し合つたりする機会のめつたにないここで、その上珍しく父と兄の気持が調和しさうなのに明るんで来てゐた彼女は、いまの一言で何かがびりりと割かれるやうな気がした。湯呑を口に持つて行きつつ、父の手がその時かすかに顫へるのを彼女は見た。すると兄への激しい怒気が湧いて来たが、

「お菓子どう?」

 と、彼女はけんどんの中からイボレットを取り出すことによつてそれを押へた。佐吉は言葉も吐かない。佐七はそれを一つ摘みながら、ふと今朝放してやつた雌目白のことを思ひ出し、それをなつかしく思つたりしたが、あたりがひどく重苦しくなつて来て、彼は手紙を息子に見せる機会が摑めなかつた。息子にそれを見せることが、なんとなく怖しかつた。その手紙が息子を驚かせ、悲しませるのが怖しいのではない、彼は息子の怒りが怖しかつた。その怒りはいふまでもなく儂に向けられてゐる――。佐七は救はれない気持になつた。

 室内の静けさが三人の心をつつんで、話は途切れ、みなそれぞれの思ひに沈んだ。三人共肉身のつながりが切れ、その間に深い淵の出来てゐるのを感じ合つた。ふゆ