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親子の中へまた一人弟が這入つて来るのだと思ふと、急に胸の中が波立つて来て、危く泣き出しさうになつた。

「しめた。」

 と佐七が不意に言つたので、彼女はびつくりして籠の方を見ると、空間に突き出た黐竿もちざをに何やら黒いものがぶら下つて揺れてゐる。佐七は、ふゆ子がかつて一度も見たことがないほど敏捷に駈け出し、つまづいて倒れはせぬかと心配なほどであつた。佐七は無論自分の義足を忘れてゐたが、さういふ時には生きてゐる足のやうに自由に動いた。やがて引返して来た彼は、曲つた指では逃がす危険があるのだらう、両掌でしつかりと小鳥を摑んで、それは大切なものを抱きかかへてゐるやうであつた。小鳥は曲つた指の間から首を出して、恐怖に彩られたまなざしでキロキロとあたりを見まはし、時々ぶるぶると体を顫はして羽ばたかうとする。佐七の顔は急に皺が延びたり縮んだりして、喜悦のために眼が輝いてゐた。

「すてき、わたしに持たして――。」

 と彼女はそれを受け取ると、小鳥は彼女のの中でもぐもぐと動いた。眼のふちを巻いた鮮かな白い輪や、綿を丸めて摑んでゐるやうな掌の感じで、ひどく珍しいものを見るやうな気がした。

「どうだ、この鳥は生きてるだらう。」

「あら、どうして。」

「三日籠の中に入れといてごらん、この鳥は死んでしまふ。小鳥が小鳥らしく生きてゐるのは捕つた二三日うちだよ。生き生きしてるだらう、ほらお前の指に嚙みついたりして。三日も籠の中へ入れとくと、翼の色に力がなくなつて、艶が落ちてしまふからのう。」

「餌が悪いんぢやないの。」

「人間の造つた餌だからいけないんだよ。」

「籠もいけないんでしよ。」

「うん、思ふやうに翼が使へないからのう。いくら良い餌をやつても駄目だよ。どら、ちよつと腹を見せてごらん。どうも女の子のやうな鳴声ぢやつたが。はつきり聴えなかつた。」

 鳥は果して雌であつた。雄だと腹部に鮮明な黄斑の直線がある筈であつたが、この鳥は腹一めんがぼうつと黄色く染つてゐた。

「やつぱり雌だつた。雌ぢやしやうがない。」

 と呟いて佐七は、放してやれとふゆ子に言つた。彼女はあらためて小鳥を見、

「放すの?」

 と惜しさうに言つたが、思ひ切つて空に投げた。風船のやうに空中に飛ばされた鳥は、途中でさつと翼を拡げ、林の中へ隠れていつた。

 ふゆ子は懐から手紙を取り出した。彼女の頭を癩になつた佐太郎の顔がかすめて、彼女は自分の発病当時の悲しさなどを思ひ浮べると、手紙を父に差し出す手が顫へた。


 夕食が終ると、病室内は急に騒しくなり、入口の硝子戸がひつきりなしに明けたり締められたりする。寝台と寝台との間を、病舎からの見舞人が絶間なくゆききして、あちらでもこちらでもぼそぼそと話声が続いた。横はつてゐると、ぞろぞろとゆかの上を引きずつて行く足音や、ど、ど、ど、ど、と義足の歩く音などが枕に響いた。その他ゼイゼイと苦しげに呼吸する音や、嗄れた笑声や、気色の悪いカニューレの音などが入り乱れて、佐吉はこの時刻になるとどうしても不快な気持にならされてしまつた。とりわけ、彼の隣寝台の男が、見舞ひに来た女と一緒に、何か下劣なことを喋つてはげらげらと笑つたり、夜食のうどんをびちやびちやいはせながら食ひ始めたりすると、不快は激しい嫌悪感となり、時には腹の底から憤怒が湧き上つて来たりするほどであつた。女は笑ふとただれたやうな赤い歯茎を露はし、歯は黄色くなつてゐる。

 太陽が落ち、硝子窓の外が暗がつてしまふと、室内は急に地獄になり、だんだん奈落の底へ沈んで行くやうな気がした。明るいうちは窓外が見え、この病棟もしつかりと大地の上に坐してゐるのが判るが、夜になり、窓外が暗黒に塗り込められて、室内だけがぼうつと仄明るくなつて来ると、なんとなく棟全体が地から浮いてゐるやうな感じで、やがて夜が更けるに従つて地下に沈み込んで行くやうな気がするのである。奈落だ、奈落だ、と彼は思ひ、これから抜け出る道のないことを思ふと、身をしめられるやうな不安と絶望を覚えた。そして平和さうにげらげらと笑つてゐる女や、その女に好色的な眼を光らせてゐる隣りの男の様子などを見ると、やがて不安は嫌悪となり、絶望は激しい現実への怒りとなつて、彼の頭をかき乱すのであつた。これが俺の世界か、これが俺に与へられてゐる唯一の人生か、と彼は呟く。一人の人にとつて、その人に与へられた人生は唯一つである、といふこの規定が、彼には堪らないものに思へた。一人の人間はあくまでも唯一本の道をしか歩くことが出来な