治承四年
安德天皇即位四年二月、帝、位を皇太子に禪る。世其淸盛の意に出づと稱す。淸盛の夫人時子旣に二位を拜し、髮を削り、二位尼と稱す。是に於て夫妻並に三宮【三宮】太皇太后宮、皇太后宮、皇后宮に准ぜらる。
三月、上皇【上皇】高倉嚴島に幸して、淸盛の意を解かんことを希はんとす。發するに臨みて、法皇に覲ゆ。法皇の鳥羽に徙さるゝや、中外の人、皆宗盛の其亡兄に若かざることを咎む。宗盛數淸盛を諫めて、乃法皇を八條烏丸に還し奉る。
五月、熊野の別當變を
上る。吿ぐるに
以仁王【以仁王】後白河帝の第二子高倉宮と號す令を下し、東國の源氏を擧げて、平氏を滅し帝を廢して自ら立たんと欲す。曰く、「事成らば重賞あらん」と。
那智、
新宮の僧徒も、亦之に應ずと。
以仁王平家を滅さんとす淸盛大に驚き、兵を率ゐて京師に入り、公卿と共に議す。
檢非違使源兼綱等を遣し、官兵を以て、
高倉宮を
圍しむ。
將に
王を
土佐に徙さんとするなり。
賴政兼綱の父
賴政、王の謀主たり。平氏未だ之を知らず。賴政急に王をして、先づ奔り
圓城寺の僧徒に
倚らしめ、而して自子弟を率ゐて之に從ふ。淸盛之を聞き、怒りて曰く、「吾、甞て賴政を奏して、
三位を授け、昇殿を
聽さしむ。何ぞ我れに
負くや」と。淸盛の
將藤原忠淸、策を獻じて曰く、「叡山、南都の僧兵皆王に應ずと聞く。我れ前後に敵を防ぎ、曠日彌久、諸國の源氏來り會せば、勝敗未だ知る可からざるなり。
宜しく速に
院宣を山徒に下し、因りて
㗖すに利を以