て、召し返へして之に面して曰く、淸盛述懷「子は鹿谷の幸を諫め止むる者と聞く。吾れ是を以て子を見るなり。抑我が家、何ぞ官家に負く所あらんや。重盛新に死すれども、遊幸自如たり。獨老夫を憫まざるか。重盛危を見て命を授くること數〻なり。官家之に越前を賜ひて曰く、『汝の子孫に傳ふ』と。而るに死すれば即褫はる。死者何の罪かある。且吾基通の爲に、中納言を請ふこと再三せり。而るに師家に超拜せしむるは何ぞや。凡そ淨海の如き者は、即過惡有りとも、當に宥七世に及ぶべし。今臣の餘命幾ばくもなきに、動もすれば誅せられんとす。身後の事知る可きなり」と。言畢り淚を垂る。靜憲も亦泣く。少焉ありて說くに大義を以てし、且之を慰藉す。淸盛意頗る解け、禮して之を遣る。旣にして帝に奏して、基房を貶し、代ふるに基通を以てし、師家以下四十三人の官爵を削り、前太政大臣藤原師長を流し、宗盛をして、衆を率ゐて法皇に造らしむ。法皇問ひて曰く、「將に遠地に流んとするか」と。宗盛曰く、「敢て然るに非ざるなり。且く鳥羽殿に幸して以て事の定まるを待ち玉へ」と。法皇を鳥羽殿に移す遂に之を鳥羽に移す。靜憲請ひて從ふ。淸盛乃人をして帝に白さしめて曰く、「今後諸政は陛下之を親し玉へよ」と。即日福原に還る。