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島中に死す。安德天皇降誕十一月、中宮まさに產せんとしてなやみ給ふ。人或は成親、俊寬のたゝる所と謂ふ。衆僧をしてはらはしむ。法皇【法皇】後白河乃爲にきやうむ。つひに分身して皇子を生む。淸盛喜極りてき、金綿を獻じて之を謝す。法皇よろこばず、其謝書をなげうちて曰く、「朕を驗者けんじやとし視るか」と。三年三年、立ちて皇太子と爲る。淸盛、驕恣益〻甚し。重盛日夜憂惧す。一日淸盛誅せらると夢む。めて泣く。たま維盛至る。之に酒を飮ましめ、さかなに刀を以てす。因りて、維盛おもへらく、是小烏こがらすと。小烏は、平家傳家の寶刀なり。受けて之を視るに、乃無文刀にして、葬る時おぶる所のものなり。乃色を變ず。重盛曰く、「とがむる勿れ、公をして終をくせしめば、吾將に佩びんとす。今之を汝に賜ふ。汝後まさに之を知るべし」と。五月、重盛、熊野の祠にいたりて死を祈り、歸りて、瘍疾ようしつを獲たり。宋醫適醫の宋より至るあり。淸盛治せしめんと欲す。重盛辭するに、國體を失ふを以てす。且曰く、「兒の疾を獲るは、命なり」と。遂に治せしめず。法皇其疾を臨み視る。重盛薨去三月にして遂に薨ず、年四十二なり。法皇、攝政基房と議して、其封戶を收む。たま中納言闕けたり。淸盛の婿むこ藤原基通任に當る。而るに基房の子師家之に任ぜらる。はじめて八歲なり。

太政入道是時、淸盛、福原に在り。十一月、地大に震ふ。京師相驚きて曰く、「太政入道來