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親を庭に下し、其耳に附して曰く、「我が公かべへだく。君たゞ叫號けうがうせよ」と。二人地を擊つ。成親すなはち叫ぶ。淸盛曰く、「可なり」と。

淸盛述懷是に於て、淸盛乃甲を被り長刀を執り、出でゝ平貞能さだよしを召して曰く、「すみやかに將士を戒めよ。今擧朝の人、我をにくみて我をはかる。盖し、我が官爵の分をゆると謂ふのみ。在昔田村丸は微者びしやなり。東夷を下したる功を以て、大將に超拜てうはいす。他も此に類する者多し。豈獨淨海のみならんや。淨海の勤勞一日に非ざるなり。保元の變に我宗族大半新院【親院】崇德上皇に赴けり。且重仁しげひと親王【重仁親王】崇德帝の子は我父の覆育ふくいくせし所なり。而るに我は故院【故院】鳥羽法皇遺詔ゆゐしやうを思ひ、獨官軍にぞくし、終に亂逆に克ち平ぐ。平治の變に、信賴、義朝の猖獗しやうけつなる、吾にして自愛せば、事未だ知る可からず。めいを重んじ躬を輕んじ凶黨を夷滅して、以て經宗つねむね惟方これかた等を收むるに至る。しば大難ををかす。官家の爲にするに非ざるものなし。此を以て之を言へば、官家の恩宥おんいう、子孫に窮むと雖も可なり。今乃かろしく讒言を信じて族滅せられんと欲す。し吿ぐる者なければ、豈危殆きたいならずや。異日細人、再、言を進むる有らば、則、宣を下し我を討ち、我をなづけて賊とせん。悔ゆ可らざるなり。吾先づ發して之を鳥羽の宮に移さんと欲す。しからざれば此に幸するを請はんのみ。北面の奴輩どはい或は且我をふせがん。すみやかに將士を戒しめよ」