の朝官たる者、六十餘人。其采邑三十條州に跨る。朝政盡く淸盛に决す。淸盛疾あり、詔して非常の赦を行ひて、以て之を禱る。淨海旣にして淸盛髮を削り淨海と稱す。別第を西八條に興して居る。童三百を選び、異服を服せしめ、京城の內外に散布し、誹謗する者を察して輙法に處す。京師目を側つ。上皇積みて平かなる能はず。嘉應元年嘉應元年、上皇髮を削り、法皇と稱す。平氏益々橫なり。
資盛重盛の次子資盛、數騎と出でゝ獵し、途に攝政藤原基房に値ふ。馬より下りず。徑に其衛を衝く。衛士捽みて之を下す。重盛、資盛の無禮を責む。基房基房、衛士を縛送して以て謝す。重盛其縛を釋きて、勞して之を遺る。淸盛之を聞き、怒りて曰く、「今日に當りて、誰か敢て淨海の孫を辱むる者ぞ。必之に報いん」と。重盛諫め止む。淸盛聽かず。三百人を伏せて、基房を路に要して其車を摧折し、從者の髻を切る。帝因りて朝を輟めらるゝこと三日。重盛、資盛を追ひて伊勢に之かしむ。
承安元年承安元年、淸盛、其女
德子【德子】建禮門院を進めて
女御と爲し、遂に
立てて中宮とす。
四年四年、
右近衛大將闕く。重盛奏し請ひて自ら之を拜す。
治承元年治承元年、左近衛大將に轉じ、
尋いで內大臣に拜す。小松の第に居る。弟宗盛、右近衛大將となる。已にして正二位に進