Page:Hōbun Nihon Gaishi.pdf/69

提供:Wikisource
このページは校正済みです

罪なし。事何んぞにはかこゝに至らんや。大人愼みて之を辭色にあらはす勿れ。しからざれば則ざん或は因りて以て入らん。苟くも吾忠直を執らば、何渠なんぞ人言を畏れんや」と。淸盛之をよしとすれども、つひに出でず。上皇かへり左右に謂て曰く、「訛言誰か之を使せしむるものぞ」と。西光藤原師光もろみつすゝみて曰く、「天これをいはしむるのみ」と。衆敢てこたふる者なし。師光は阿波の人、甞て狡黠かうかつを以て、藤原通憲みちのりに愛使せらる。後髮を剃り西光さいくわうと稱す。院の北面たり、すこぶる寵あり。心、平氏の驕恣をにくむ。しば間につかへまつり、上皇に說く。

六條天皇是時太子嗣いで立つ。是を六條帝とす。帝いとけなし。政、復上皇に歸す。上皇の寵后滋子しげこ【滋子】兵部大輔時信の女は淸盛の妻時子の妹たり。憲仁のりひとを生む。上皇之を立てんと欲す。仁安元年仁安元年、淸盛を以て正二位に叙し、內大臣ないだいじんに任ず。二年二年、遂に從一位に至り、太政大臣だいじやうだいじんのぼる。隨身ずゐしん兵仗ひやうぢやうを賜ひ輦車にて宮に入るをゆるす。敕していふを播磨、肥前、肥後に賜ひ、大功田と爲してよゝつがしむ。重盛、從二位に叙し、權大納言に任ず。劔を帶して殿に昇るを聽す。次子宗盛、從三位に叙し、參議に任ず。三年三年二月、憲仁、ゆづりを受く。はじめて五歲なり。高倉天皇是を高倉帝とす。帝の母【帝の母】寵后滋子の兄、大納言時忠ときたゞ、衆に謂て曰く、「方今天下の人、平族へいぞくに非ざる者は、人に非ざるなり」と。是の時に當り、平族