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之を斬る。平氏の威天下に振ふ平氏の威天下に振ふ。

肥前の人日向通良ひなたみちよし亂をす。平家貞を遣し之を討ちたひらぐ。

是時に當りて、政、上皇【上皇】後白河に在り。藤原經宗、藤原惟方、帝に勸めて政を親らせしむ。兩宮こも惡し。上皇、淸盛を引きて自たすく。永曆元年永曆元年、上皇、淸盛を正三位に進め、參議さんぎに任ず。淸盛、乃上皇の旨を奉じて、經宗、惟方を收執す。帝甞て故近衛帝の后をれて中宮となす。世之を二代のきさきと呼ぶ。淸盛二人の諫めずして、帝を惡に陷るゝを以て罪となし、之をらんと欲す。前關白さきのくわんぱく忠通たゞみちすくく。乃死を宥し流に處す。明年、淸盛累遷して權中納言ごんちうなごんに至る。六年
淸盛等昇進
六年、遂に從二位に進み、權大納言に任ず。重盛正三位參議に至る。

永萬元年永萬元年、秋、帝崩ず。諸寺の僧徒葬に會す。延曆えんりやく園城をんじやうの二寺、禮を爭ひて鬪はんと欲す。上皇源賴政を召して自まもる。訛言あり、上皇、平氏をはかると。平氏大に驚き、兵を聚めて自守る。重盛曰く、「事必妄なり。請ふ、法住寺はふぢうじに往きて親ら之を驗せん」と。法住寺は、上皇の宮なり。乃往く。みちに上皇の來りて平氏の第に幸し、口づから解諭ときさとし玉はんと欲するに遇ふ。因りて扈還す。淸盛、病と稱し出でず。重盛入りて諫めて曰く、「大人宜しく出でゝえつすべし。吾が宗、功ありて