邦文日本外史卷之一
大權武門に歸するの起原外史氏曰く、吾れ舊志を讀み、鳥羽帝の時、數制符を下して、諸州の武士の、源平二氏に屬するを禁ぜしを見る。曰く、大權の將門に歸せしは、其れ此時に有るか。三善淸行の封事【封事】醍醐の朝、延喜十四年二月、淸行、意見封事を上るに宿衛豪橫の患を陳べしを讀むに及びて、乃制度の弊、其來ること久しく、亶此に始まりしに非ざるを知れり。
上世兵制
文武一途盖し、我朝の初めて國を建てしは、政體簡易にして、文武一途なり。海內を擧げて皆兵にして、天子之が元帥たり。大臣、大連之が褊裨たり。未だ甞て別に將帥を置かざりしなり。豈復謂ゆる武門武士と云ふ者あらんや。故に天下事なければ則已み、事あれば則天子必ず征伐の勞を親し、否らざれば則皇子、皇后之に代り、敢て之を臣下に委ねられざりしなり。是を以て大權、上に在りて、能く海內を制服し、施きて三韓肅愼に及ぶまで、來王せざるは無かりき。