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(淸原氏系圖)

後三年の戰三年、義家に詔して陸奥守むつのかみと爲し、鎭守府ちんじゆふ將軍しやうぐんを兼ねしむ。初め淸原武則きよはらたけのり、二子あり。武貞たけさだ武衡たけひらと曰ふ。武貞、眞衡さねひらを生む。又藤原經淸の寡婦くわふを納れて、家衡いへひらを生む。亦經淸の子淸衡きよつらを養ふ。而して眞衡を嫡嗣ちやくしと爲す。家衡、淸衡、以下皆之に臣として事ふ。吉彥秀武姑夫こふ吉彥秀武よしひこひでたけ、事を以て眞衡をうらみ、兵を擧げて之に背く。眞衡赴きて之を攻む。秀武、人をして家衡、淸衡に說きて、其虛を襲はしむ。眞衡、乃、還り救ふ。已にして義家至ると聞き、迎へて之をけうし、復、往きて秀武を攻む。二弟又來り襲ふ。義家、兵を從へて其城に入りふせぎて之を郤く。義家、自、出羽に赴きて、家衡を攻む。利あらずして還る。武衡喜び來りて、家衡に謂て曰く、「子は八幡太郎に克つ。吾曹わがさうえいなり。當に與に力を戮すべし」と。遂に兵を合せ金澤柵金澤の柵に據る。義家大に怒る。