寛治元年寛治元年九月、自數萬騎を將ゐて之を攻む。柵を去ること數里にして雁行の亂るゝを望み見て曰く、「是れ伏有らん」と。兵を縱ちて搜り索む。果して獲て之を鏖にす。衆に謂て曰く、「兵法に言はく、『鳥亂るゝ者は伏なり』と。我れ學ばざらば則殆からん」と。遂に進みて柵を圍む。相摸の人權五郎景政
【敵】鳥海彌三郎鎌倉景政戰を挑む。敵射て其右目に中つ。景政箭を拔かずして己を射たる者を索め、終に之を射殺す。武衛險に據りて死闘し、多く我兵を傷く。又卒千任といふ者をして、義家を詬言せしめて曰く、「汝の父名簿を我に納れて、以て敵に克つを獲たり。簿、見に我に在り汝何を以て我に負くか」と。義家怒りて、之を攻めて、未だ下す能はず。
義家の弟
義光、
新羅三郞新羅三郞と稱す。亦勇智ありて技能多し。是の時
右兵衛尉たり。京師に在りて、兄の軍利あらざるを聞き、奏して赴き
援はんことを請ふ。許されず。遂に官を
舍てゝ之に赴く。義光
素より
音を好む。嘗て
笙を
豐原時元に學ぶ。是の時、時元已に死せり。
豐原時秋其孤子
時秋、義光を送りて
足柄山に至り、月明なるに會ふ。義光因りて笙を吹き、
盡く學びし所を授けて
訣別し、遂に陸奥に至る。義家喜び泣きて曰く、「吾れ汝を見る、猶
先君を見るが如し」と。乃、與に倶に進み攻む。柵
固くして拔けず。義家會食に因りて、
勇怯の
兩列を設け、以て
戰士を勵