康平五年康平五年、任滿ち、高階經重に詔して代り任ぜしむ。國民賴義を慕ひて、經重に服せず。經重已むを得ずして去る。
淸原光賴、武則是に於て、賴義必虜を滅ばさんことを矢ひ、人をして出羽の酋淸原光賴、及び弟武則に說かしめ、諭すに大義を以てせしむ。七月、武則、子弟以下萬餘人を率ゐて至る。賴義、三千人を以て【營岡】陸奥營岡に會議して、七陣と爲し、武則等を以て分ちて之に將たらしめ、而して自第五陣に將たり。進みて【萩埓】陸奥萩埓に至る。將に【小松】出羽小松柵小松の柵を攻めんとし、凶日を以て果さず。淸原氏の候騎、誤りて火を民家に失するに會ふ。柵中大に囂し。賴義、武則に謂て曰く、「機失ふ可らず。日に拘りて何をか爲さん」と。對へて曰く、「我が兵怒りて火の如し。宜しく此時に及びて之を用ゐるべし」と。乃騎兵を遣し、其衝路を絕ち、而して歩兵薄りて之を攻む。深江是則等、死士を以て險を冐し、柵に入る。虜大に擾る。貞任、弟の宗任をして、出でて戰はしむ。賴義、麾下を以て橫に擊ちて之を破る。虜の遊軍、又我第七軍を襲ふ。亦擊ちて大に之を破る。虜遂に柵を棄てゝ走る。乃、柵を焚きて退く。霖雨に會ひて留ること旬餘。磐井以南盡く宗任に應じて、我が糧道を侵奪す。賴義兵を分ちて赴き拒ぐ。九月、貞任我が兵の寡きを瞰ひ、精騎八千を以て來り襲