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其弟大將道兼みちかね、之と權を爭ふ。賴信、素より道兼に事へたり。賴光に謂て曰く、「吾が力能く道隆を刺し、我が主をして之に代らしめん」と。賴光、其口をおほひて曰く、「妄言するなかれ。事敗るれば、肝腦かんなうまみれん。汝が主も亦豈晏然として止る可けんや」と。賴信、乃む。賴光、三子あり。長は賴國よりくに、子孫よゝ多田たゞに居り攝津源氏攝津源氏と稱す。

平忠常の亂賴信、尤勇敢ゆうかんにして、善く兵を用ゐる。長元中甲斐守と爲る。たま上總すけ忠常たゞつね、亂を作す。朝廷上野すけ直方なほかたをして東海、東山の兵をひきゐてこれを討たしむ。三歲にして平ぐること能はず。乃、賴信を以て常陸すけとなし、之を伐たしむ。賴信、命を聞きて卽往く。人其兵の集るを待ちて進まむことを勸むれども聽かず。遂に子の賴義よりよし等を率ゐ、進みて鹿島かしまに赴く。忠常舟をうばひ、さくを海岸に列ぬ。わたる可からず。賴信、弱を示して之を怠らせんことを計り、使をして和を請はしむ。忠常がへんぜず。是に於て、衆を聚めて戰を議す。衆へらく、「其れ舟筏しうばつなし。宜しく海をめぐりて赴き攻むべし」と。賴信曰く、「不可なり。賊險をたのむ。吾れ直に渡りて、そのそなへざるを攻めば、一戰にして下す可きなり。聞く、淺き處ありて騎渡きとすべしと。軍中豈之を知る者有らんか」と。高文たかふみといふ者あり。自之を知ると稱