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擧げて反し、法住寺殿ほふぢうじでんを焚く。矢、乘輿に及ぶ。遂に帝を閑院かんゐんに、法皇を五條宮にうつし奉る。公卿、皆裸跣して遁る。義仲、乃將士に謂て曰く、「帝と爲り、院と爲るも、唯吾が欲する所。公となり、卿と爲る、唯汝が請ふ所のまゝのみ」と。乃、公卿以下四十九人の官爵を奪ひ、其妻の兄藤原師家ふぢはらもろいへを以て攝政となす。京師其暴に苦しみ、乃、平氏を思ふ。義仲旣に賴朝と𨻶あり。義仲書を屋島に貽りて平氏と合從せんとす其來り討たんことを恐れ、平氏と從を爲さんと欲し、書を屋島におくりて、其意を言ふ。宗盛之を許さんと欲す。知盛曰く、「義仲我をして其極に至らしむ。我乃之と和しなば、恐らく賴朝我を笑はん。公宜しく答へて、『天子いませり、汝冑をぎ、弓をゆるべ、自來りて降るを乞はば、吾れ則之を許さん』、と曰ふべし」と。宗盛之に從ふ。

壽永二年
平氏福原に城く
明年、山陽旣に定まりしを以て、帝を奉じて福原を復し、因りてきづく。山を負ひ海に臨む。兵を集めて之を守る。二月、敎盛、五百騎を以て、備中の下道しもつみちに屯す。たま讃岐の廳衆ちやうしう二千騎、叛きて源氏に應じ、船に乘りて下道を過ぎ、仰ぎて我營を射る。敎盛怒りて曰く、「此輩甞て我馬にまぐさかひ、我馬にみづかはんと云ひし者。今敢て亡狀此の如し」と。舸を飛して之を追ふ。廳衆淡路に走り、源義嗣よしつぐ、源義久よしひさに倚る。敎盛攻めて之をみなごろしにし、並に義嗣、義久を殺し、遂に河野通信かうのみちのぶ