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く、「吾れ實盛年高きを知る。今其髮の黑きものは何ぞや」と。對へて曰く、「實盛甞て臣と東國に於て言ひて曰く、『白頭軍に從はゞ、吾まさに我が髮を𣵀せんとす。しかせざれば則以て壯者に伍し難し』と。盖し、其言をめるなり」と。乃、其頭を洗ふに、頭髮皆白し。義仲泣きて曰く、「吾れ幼孤のとき、此老に鞠育せらる。其をして來り歸せしめば、將に父とし、之に事へんとせしに、乃、恩を重んじ死に就く。義と謂はざるべけんや」と。尸を收めて之を葬る。義仲、復我軍を追ふ。平盛綱、藤原景高ふぢはらかげたか等十餘人之に死し、我が諸將敗れ歸る。法皇會議す。藤原長方ふぢはらながかた漢の匈奴きようどと和せし故事を引きて使を遣して、諸源の罪をゆるさんことを請へども聽されず。平氏書を山徒におくりて之を誘ふ。山徒從はず。

貞能西海を定む七月、平貞能さだよし、旣に西海を定む。降將菊池高直きくちたかなほ原田種直はらだたねなほ以下、兵千騎、糧十萬石をて至る。平氏みな喜ぶ。用ゐて東北を禦がんと欲す。美濃の人、來り吿げて曰く、「義仲已に近江に至る」と。是に於て、資盛すけもり知盛ともゝり重衡しげひら、貞能等と宇治、勢田を守る。又賴盛を遣し、之に繼ぐ。賴盛辭して往かず。しひて之を遣る。已にして源行綱ゆきつな等、四方より京師を窺ふ。山徒も亦義仲にくみす。宗盛、乃諸將を召し還し、貞能を遣し、行綱を攝津に擊つ。知盛五百騎を粟津あはづに次す。義仲の前軍