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追悼使派遣四月、維盛これもり通盛みちもり忠度たゞのり等を以て追討使つゐたうしとなす。山陽、山陰、西海の諸國、及び參河以東、若狹以南の徵兵十萬餘人をひきゐ、北陸道に入りて、まさ義仲よしなかたひらげて、然る後賴朝よりともに及ぼさんとす。齋藤實盛齋藤實盛さいとうさねもり遣中にあり。大庭景尙おほばかげひさに謂て曰く、「平すたり、源おこる。なんぞ木曾に降らざる」と。景尙曰く、「東人吾輩の姓名を知らざるなし。興衰を以て節を變ぜば、人言を若何いかんせん」と。實盛曰く、「吾、徒に以て子を試みしのみ」と。入りて宗盛にまみえて曰く、「越前は臣の鄕なり。古に曰く、『にしきて鄕に歸る』と。臣、君恩を受くる久し。今老たり。唯一死以て君に報ずるあるのみ。君、なんぞ錦の直垂ひたゝれを賜はらざる。臣て以て歸らば、死すとも餘榮あらん」と。宗盛、之を憫み、其言の如くす。

燧城戰義仲、我軍の越前に向ふと聞き、將を遣して燧城ひうちじやう【燧城】越前を守らしむ。城は山にり、谿たにを帶び、最も要地たり。我が軍、谿水をへだてゝ近づく能はず。城將齋明さいめい【齋明】越前平泉寺の僧と云ふ者あり。書をつくり、之を矢に約し、以て我が軍に射て曰く、「源氏つゝみを築きて水をたくはふ。君、東山のふもとを决せば、たち所に涸れん。臣、内應を爲さん」と。我が軍之に從ひ、立所に其城を拔き、連戰皆つ。追ひて三條野に至る。敵將齋藤光平さいとうみつひら出でて戰ふ。實盛曰く、「我と同姓なり、寧ろ我に死せよ」と。ともに鬪ひて之をる。