賴盛賴朝、數書を賴盛に遺し、其舊恩を謝す。賴朝上書又間に上書して曰く、「臣敢て亂を爲すに非ず。乃亂を靖ずるのみ。陛下、尙平氏を棄てざれば、則請ふ兩ながら和を講じ、二姓並び仕ふること往昔の事の如くせん、其忠其否、簡ぶこと陛下に在り」と。法皇書を以て宗盛に示す。宗盛答へて曰く、「臣が父終に臨みて、臣等に命じて曰く、『必ず賴朝と死を决せよ』と。語、猶耳に在り。臣和する能はず」と。藤原秀衡
城資良是に於て請ひて陸奧の藤原秀衡に勅して、賴朝を擊たしめ、越後城資良に勅して、義仲を擊たしむ。資長は、平維茂七世の孫なり。六月、資長弟長茂と、兵を收めて南して、義仲を擊つ。利あらずして還る。八月、資長を越後守に秀衡を陸奧守に叙し、趣して源氏を伐たしむ。資長復發す。疾作りて卒す。九月、宗盛從弟の通盛、經正を遣し、北陸敗軍東、源氏と越前に戰ひて敗績す。經正走りて若狹に入る。通盛退きて敦賀城【敦賀城】越前を保ち、經正を召す。未だ至らざるに、義仲の兵來り攻む。乃兵を解きて西に還る。
壽永元年壽永元年九月、城長茂復南し、義仲を伐つ。復利あらずして還る。是月、宗盛內大臣に任じ、隨身兵仗を賜ふ。騶從を具へて拜賀す。二年二月、從一位に叙せらる。