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Page:Gunshoruiju18.djvu/534

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卯月のはじめつかた。たよりあれば。又おなじ人の御もとへ。こぞのはるなつのこひしさなどかきて。

 見し世こそかはらさるらめ暮はてし春より夏にうつる梢も

 夏衣はやたちかへて都人今やまつらん山ほとゝきす

そのかへし又あり。

 草も木もこそみしまゝにかはらねと有しにもにぬ心ちのみして

さてほとゝぎすの御たづねこそ。

 人よりも心つくして郭公たゝ一聲をけふそ聞つる

さねかたの中將の五月まで時鳥きかで。みちのくにより。 續後撰都にはきゝふるすりぬイらん郭公せきのこなたの身こそつらけれとかや申されたる事の候なる。そのためしとおもひいでられて。此文こそことにやさしくなどかきてをこせ給へり。さるほどにう月のすゑになりければ。ほとゝぎすのはつねほのかにもおもひたえた り。人づてに聞ば。ひきのやつといふ所にあまた聲なきけるを。人きゝたりなどいふをきゝて。

 忍ひねはひきのやつなる郭公雲ゐにたかくいつかなのらん

などひとり思へどもそのかひもなし。もとより東路は。みちのおくまで。昔より時鳥まれなるならひにやありけん。ひとすぢに又なかずはよし。稀にもきく人ありけるこそ人わきしけるよと心づくしにうらめしけれ。又くはとくもんゐむ和德門院 義子の新中納言ときこゆるは。《九條廢帝姬宮》京極中納言定家の御むすめ。ふか草のさきの齋宮凞子ときこえしに。《後鳥羽院皇女類聚大補任云建保五年凞子內親王御歲十三九月十四日立野宮同十九日着》ちゝの中納言のまいらせをき給へるまゝにて年へ給にける。此女院は齊宮の御子にしたてまつり給へりしかば。つたはりてさぶらひ給なり。うきみこがるゝもかり舟などよみ給へりし民部卿のすけのせうとにてぞおはしける。《續後撰戀五 にこりにうきみこかるゝもかりふねはてはゆきゝのかけたにもみす》さる人のこにて。あやしきうたよみて。人にはきかれじとあながちにつゝみ給