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一二畳半の部屋に六ないし八名の入所者を、あるいは二四畳の部屋に 一二名以上の入所者を放り込み、共同生活を強いた。定員をはるかに超えて収容した時代には更に過剰な患者の詰め込みがなされた。

 住環境は、人間が一個人として人格を形成・発展させる基盤としてきわめて重要なものである。プライバシーへの配慮が欠如した集団生活は、患者が個として扱われず、畜殺されるべき存在とされていたことを示す。

 3 非人道的処置

 ㈠ 終生隔離の場

 療養所は、一たび収容した患者が外に出ることを許さず、そこで命を終えさせることを目的とした収容所であった。

 極めて貧しい医療体制、極端に足りない職員、収容した患者によって賄われることを前提とした運営、療養所内に設置された火葬場、納骨堂、各宗教団体の施設の存在が、療養所の閉塞性、自己完結性をあらわにしている。

 ㈡ 外出制限

 入所者は新法一五条により外出を厳しく制限された。現に原告らの多くは、滅多に園の外には出ないと述べている。法律上、外出には施設長の許可が必要とされているが、その許可は極めて恣意的に運用された。外出許可の条件として、菌陰性であることが求められ、菌陽性者は、親の危篤など特別な事情のある場合以外は、施設職員の目を盗んで無断外出を繰り返すほかなかった。

 かかる医学的根拠を欠いた外出制限は、青松園のように、一時帰省を願い出る際、別の入所者を保証人として立てるよう求め、本人が約束期間内に戻らなければ保証人を監禁するという、極めて理不尽な制度まで生み出した。

 無断外出により、監禁されたり謹慎を命じられたり、何らかの不利益処分を受けた原告も多い。このような処遇は、これを受けた者の人間としての尊厳を深く傷つけるのみならず、その事実を耳にする他のすべての入所者たちに恐怖感を与え、さらに外出を困難にした。

 また、昭和三三年三月には「脱走者一斉検束」が行われ、無断外出者の一名が科料に処せられた。昭和三五年一月一一日の読売新聞には、「野放しのライ患者」とのタイトルの記事が掲載された。

 原則として外出を禁止する法律の存在と、それを強調するこれらの見せしめ行為や喧伝により、原告らの行動は著しく制限されていた。被告は、昭和四〇年代以降は外出は事実上自由であったとするが、少なくとも法廃止まで、外出禁止規定が在園者の生活を制限していたというべきである。

 ㈢ 退所規定の欠如

 新法には退所に関する規定はなく、新法によれば、いったん収容された「患者」は治癒しても療養所の外に出ることはできない仕組みになっていた。

 退所決定準則なるものの存在は、在園者には伝えられておらず、原告らのほとんどはその存在さえ知らなかった。

 原告らの多くは、療養所に収容される時には、入所勧奨の際の「二、三年で帰れる」、「半年で帰れる」などいう言葉を信じ、真面目に治療して病気を治し、一刻も早く家族の元に戻ろうと思っていたと述べる。しかし、在園者たちの多くが長年療養所に縛り付けられている現実を目の当たりにし、また、外出制限され、患者作業に従事させられ、現に退所していく者を見ないという生活の積み重ねの中で、退所はかなえられるべくもない願いになっていく。現実に退所を願い、医師やケースワーカーに相談した者も、多くは軽くあしらわれ、退所をあきらめざるを得なかった。

 また、入所に至るまでの度重なる入所勧奨や、収容に際しての自宅の消毒などのために、既に帰るべき故郷が失われていることもしばしばである。

 ㈣ 以上のような隔離の構造の下、原告らの多くは終生療養所に縛り付けられてしまっているのである。

 4 人間の性と愛に対する侵害

 人間は、愛によって人生を豊かにすることができる。愛は、性を基盤とし、両者は密接に関連している。人間の愛・性への制約は許されない。

 らい療養所においては、子供を産むことも育てることも許されない徹底した優生政策が採り続けられた。青松園では一人の子供も生まれ育てられたことはない。母の体内に宿った子供はすべて堕胎された。男たちは、連れ合いの子宮を傷つけないように自ら断種した。

 原告らは、実施された個々の優生手術を問題にしているわけではない。優生政策と非人道的な処遇によって、ここに生きたすべての人間のあるべき性が根本から踏みにじられ、それ故に人生で最も重要な価値を有する性と愛が言いようのないほどに侵害されたのである。

 ㈡ 優生政策の下で

 療養所における結婚には、その代償として屈辱的な断種が用意されていた。一方、断種の持つ痛みや屈辱を受け入れることができず結婚を断念した者は、より深い孤独の中で残りの人生を過ごさねばならなかった。断種は、収容者に犬畜生と同じに扱われたという非常に大きな屈辱感を与えるものであった。

 また、断種は、夫婦舎への入所条件として余儀なくされた。実際に断種を受けるのは男性であるが、断種の屈辱や悲しみは配偶者たる女性も共に味わう辛酸である。

 堕胎による被害は、断種による被害と重なるが、それにとどまらない。子供が持てない療養所内で妊娠した女性にとって、療養所で子供を出産するという選択肢はなかった。女性にとって人生における大いなる喜びであるはずの妊娠が、療養所では、恥であり、屈辱であり、恐怖であった。堕胎によって子を奪われた悲しみは、配偶者たる夫にも共通である。そして、療養所における優生政策が入所者にもたらした喪失感は歳を重ねるごとに深まってゆくのである。

 ㈢ 雑居の夫婦舎における生活

 療養所では、園内結婚が許されたが、夫婦舎といっても独立の部屋を与えられることはなかった。青松園では、未婚既婚を問わず女性が生活する大部屋に、結婚相手である男性が枕を持って通う「室入り」と称する通い婚がなされていた。夫婦舎がある療養所でも、当初は雑居の夫婦舎であり、何の仕切りもなく布団の端が重なるような状況で、新婚生活を強いられるという人道に反する処遇が採られ、何組かの夫婦が部屋を共有するという本当に惨めな生活を強いられた。

 ㈣ 自由な性と愛の剝奪

 絶滅政策をハンセン病患者の子孫にまで及ぼそうとしたのが、療養所内において子供を産むことを禁止する優生政策、断種・堕胎の強制であり、収容者の性と愛を蹂躪し人間としての尊厳を破壊する国家犯罪である。

 これによる被害の特徴は、第一に、収容者の自由な性と愛を極度に制限しただけでなく将来への望みや人間としての誇り、社会性までも奪ったということ、第二に、その損害は優生手術を受けなかった収容者も同様に発生したということ、第三に、その被害が 加齢とともに被害が再認され深刻さを増していくということである。

 断種を受けた収容者は、断種を受けたその時点で、一生自分の子供を持つことができない人生が決定付けられる。受け継がれてきた命の流れは、断種を限りに終焉を迎えた。しかも、この無念さは、断種された時点のものだけではない。その者の長い一生の間、常に心に去来し、そして自身の命の終末に近づけば近づくほど現実のものとして感じられていくのである。故郷に帰ることもできず孤独に齢を重ねるほかない療養所において、これもまた、老いとともにより深遠な悲しみとして収容者に迫ってくる。

 さらに、被告の行った優生政策、断種・堕胎は、新法が廃止された現在に至っても、園外に頼るべき子供がおらず、断種堕胎の際に受けた屈辱感ゆえに社会内で生きていこうという気持ちが奪われているという点で、原告らから社会復帰の途を奪うという被害をももたらしている。

 優生政策のねらいは、すべての収容者に子を持つことを許さず、すべての収容者が死に絶えるのを待つことにあった。そのために、直接的に断種や堕胎によって種の保存を不可能とする方策のみならず、制度として収容者たちに結婚という選択を選ばせないように追い込む方法が採られた。その結果、断種や堕胎をしなかった収容者たちは結婚という選択を奪われ、優生政策は完結した。断種して結婚することと、結婚をあきらめ断種を避け、あるいは身ごもった子供は堕胎されるということとは、いずれも子供を持てない悲しみにおいて同じである。

 5 人の労働に対する侵害

 すべて収容者は、病状いかんに関わらず、奴隸的拘束ないし意に反する苦役というべき作業が義務付けられた。

 療養所は、本来、病気を治療し、患者を再び社会に戻すことを目的とするはずである。療養に専念すべき患者に作業を課すことは療養所本来の目的に真っ向から対立する。ところが、被告は、できるだけ配置される職員の数を抑え、本来療養を必要とするはずの収容者に作業を強制した。

 強制された患者作業の種類は、医療を始め生活全般にわたり、重労働や火葬作業も含まれ、実に収容者の九割以上が患者作業に従事させられた。収容時から症状が重篤であった少数の収容者を除く全員が、何らかの作業を強制されており、そこから逃れることはできず、時には、重症の患者や体調の悪い患者も作業を強制された。また、これらの作業の対価は極めて低額であった。

 患者作業は、収容者たちの障害を重くし、法が廃止された現在においては社会復帰の大きな妨げとなっている。日本の療養所ほど障害の強い患者はいない。収容者が患者作業によって受けた障害の多くが手足の指先の欠損であるが、これは、日常生活を初め何らかの職業に就くことまでを困難にしたばかりでなく、ハンセン病であるとの典型的な烙印としての機能を社会で有している。後遺症を負った収容者は、退所後の差別・偏見を恐れて退所を断念せざるをえなくなるのである。しかも、このような後遺症に対する補償は一切なされていない。

 6 低劣な医療

 各療養所における医師・看護婦を始めとする医療スタッフの絶対的不足は顕著であった。そのため、療養所は到底まともな医療施設とはいえなかった。そこでは、本来専門的訓練を受けた医療福祉スタッフがなすべき仕事が、在園者の患者作業によって賄われていた。

 また、療養所においては、まずハンセン病本体の治療からして貧しかった。

 プロミンを始めとするスルフォン剤が登場し、ハンセン病が治癒する感染症となった後も、患者を主体とした治療行為は行われず、当然に留意すべきらい反応を始めとする副作用に対する処置も不十分だった。また、視力障害等の関連障害に対する医療も極めて貧困であった。

 これは、療養所が医療の場ではなく、患者を隔離絶滅させる場であることを主眼とする施設であったことを象徴するものである。

 7 今も続く被害

 新法が廃止されても、原告らの被害は終わらない。

 それは、法が廃止された今も、原告らのほとんどが療養所の外の社会に戻れない現実、法廃止時点で入所者の約二五パーセントが社会復帰の希望を持ちながら社会復帰を現実のものとして考える者がほとんどいないことからも明らかである。

 収容隔離によって完全に絶たれた社会との絆、重い後遺症、いつの間にか重ねてしまった齢、戻るべき家族の不在、根強く残る社会の差別・偏見のいずれもが、彼らの社会復帰を阻害している。