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質な被害を受け続けてきた。

 二 スティグマによる被害

 1 差別・偏見の作出・助長

 被告は、絶対隔離絶滅政策及びそれを合法化した新法で、ハンセン病が強烈な伝染病であり、患者は危険な伝染源だと説いた。被告は、地方自治体、住民を巻き込んで無らい県運動を展開し、患者を社会から隔離すべき未収容患者として、徹底排除を呼び掛けた。被告は、役場の職員、学校教師、医師らも「狩り込み」の手足として使い、地域住民にも、罪人扱いの収容や大々的消毒を目の当たりにさせ、恐怖と不安の感情をあおった。「強烈な伝染力をもつ病気である」という誤った病像観は、地域住民をも巻き込んでの患者狩りに広がった。

 このような誤った病像観の社会的集積が、今あるハンセン病者に対する差別・偏見にほかならない。被告が、ハンセン病は強烈な伝染病だという誤った病像観、隔離主義の新法を、全国律々浦々に「啓蒙」していった結果そのものである。被告の「啓蒙」は、患者を一人も漏らさず収容することが目的であった。そのため、ハンセン病の誤った病像観に基づく差別と偏見を作り出し、加重した。そして、その差別・偏見は、根深いところで変わらず存在し続けている。

 新法は、ハンセン病を人から人へ強烈にうつっていく伝染病であると規定した上で、その予防法としては強制隔離しかないという法律構成になっている。新法が厳然として存在している事自体、ハンセン病者と家族に対する間違った偏見・固定観念を植え付けていた。新法が国家の名により伝染の危険を説いているのだから、一般社会がらいの伝染による恐怖心や患者排除の差別の心を払拭できないのは当然である。新法の存在そのものが、法と医療の名の下に凄まじい差別を繰り返し、原告らは「烙印」を押され、排除され、隔離された。

 この差別・偏見の深さ、甚大さこそ、ハンセン病者との「烙印」を押された者の傷の深さ、甚大さである。

 2 苛烈なスティグマ

 原告らは、恐ろしい「らい病」の伝染源として、地域社会の差別・偏見の目にさらされ、厳しい迫害を受け、それまで暮らしていた地域のすべての人々から忌み嫌われ社会から排除された。患者は、あぶり出されるように、療養所へと収容されるか、あるいは逃亡者としての生活のいずれかを余儀なくされた。そして、家族も、社会の差別・偏見の目にさらされ、このことが原告らをさらに傷つけ追い込んだ。

 スティグマはよみがえり、傷を広げる。原告らは、社会から拒否され続けることにより、これまで受けた屈辱、苦しみ、悲しみが、何度となくよみがえり、追体験され、その上にまた苦しみ悲しみが積もっていく。

 退所者は、常に社会の中でその差別・偏見にさらされ、今なお療養所にいたことは、一切隠し通さねばならず、片隅でおびえながら生活をしなければならない。これは家族に対しても同様である。社会での経済的苦労に加え、その惨めさ、苦しさ、悲しさすべてを今でも背負い続けている。

 苛烈なスティグマは、原告らを家族と切り離した。原告らは、今なお、入所の際に断ち切られた故郷との絆、家族との絆を再び繫ぎ結ぶことができない。家族が一人一人死んでいく中で、原告らは、次世代に自分の存在を打ち明けられない。時の経過とともに被害は堆積し、そして状況は悪化していく。自分が死ねば終わる、自分が死にさえすればもう迷惑は掛けない、そういう存在だという、苛烈なまでのスティグマは、繰り返し原告らを苦しめ続け、その傷を深くしているのである。

 三 隔離収容によって受けた被害

 1 収容被害

 ㈠ 収容

 被告は、ハンセン病患者を根こそぎ社会から排除する加害システムを構築し、原告らは、これによって、家庭内・社会内生活基盤から切り離されて生活することを余儀なくされた。原告らのいずれもが、家族・友人・知人、そして故郷との絆を断ち切られ、社会から排除され、他者との自由な人格的交流を阻まれ、結婚や子孫を残す環境を奪われ、適切な治療の機会を奪われた。正に人格全般に及ぶ被害を受け、その被害は、現在まで累積してきている。

 ㈡ 家庭内基盤の破壊

 収容へと追い詰められる過程で家族との結びつき、家庭内基盤は崩されていき、ついには収容により決定的に破壊される。

  ⑴ 家庭を失う

 既に結婚していた者の多くは、「らい患者」であるとの措置を受けることにより、収容により、離婚せざるを得なくなる。信頼していた夫あるいは妻から突然離別を言い渡されるその悲しみ痛みは例えようもない。

 また、当人同志は固い絆で結ばれていても、配偶者の親族がハンセン病に対する差別・偏見意識を有している限り、婚姻生活を続けるのは困難であった。

 親子も兄弟姉妹も同様である。すべての原告が家庭を失った。

  ⑵ 家庭を築くことができない

 これから結婚しようと考えていた者も、ハンセン病罹患事実の暴露により、結婚相手の両親などの反対にあい、結婚自体あきらめざるを得ない状況に追い込まれていった。また、たとえ相手の理解が得られても、社会に残されることになる相手に与える迷惑を考えて自ら結婚をあきらめて入所する者もいる。社会の中で自由に家庭を築くことができない。このことはすべての原告に共通する。

 ㈢ 家族の被害及び家庭内基盤自体の崩壊

 患者本人だけでなく、家族・親族も多大な被害を受ける。

 「らい患者」宅との公示の最たるものは患者宅の消毒であるが、「危険な感染源」の所在地であるとされ、家族は、その場所でもはや人としての生活を送ることができなくなる。そして、社会の偏見に追われて家族が離散したり、家族との連絡が途絶えたりして、帰るべき故郷を失うことになる。

 また、家族・親族もまた、結婚、就職、進学など様々な場面において被害を被る。原告らの多くは、家族がこのような被害にあうたびに自らを責め、更なる被害を避けるためいやいやながらも収容に応じるが、収容されてからも、療養所にいる自分の存在ゆえに家族が被害を受け続けることを思い知らされる。原告らは、自分の存在の痕跡が社会に残らないようにすることが家族を守る唯一の方法であるとさえ考えざるを得ない状況に追い詰められる。家族をも巻き込むような加害システムが存続し続ける限り、原告らは家族の元へは帰れないし、連絡を取ることもできない。家庭内基盤を回復することは不可能であった。

 ㈣ 社会内基盤の破壊

 原告らは、各人各様それまで人生を歩み、人間関係を培ってきているので、被害の現れ方に違いがあるが、社会内に生存する基盤を破壊されたという点では共通した被害を被っている。

 それまで培ってきた友人・知人、その他地域のコミュニティとの関係は、切断される。誤った病観に基づく差別・偏見の中で、友人・知人との関係を発展させることは困難である。そのような絆の切断は収容により決定的となった。

 また、就学していた者は、学業を断念せざるを得なくなる。消毒は、時には学校にまでも及ぶこともあった。ハンセン病罹患事実が暴露されれば、もはや学校に通うことはできなくなり、一度収容されれば社会の中での自由な学業への復帰は絶望的となる。

 さらに、仕事を持っていた多くの原告らが職を辞せざるを得ない状況に追い込まれ、現実の収容により職を失っていた。

 ㈤ 社会全体の全人格の否定・排除

 隔離収容の継続により入所者の社会復帰の可能性は次第に低くなっていくが、隔離期間の長短にかかわらず、原告らは療養所に強制的に収容させられたことそれ自体によって社会とのつながりを断ち切られ、普通の人間の社会に戻れない状態に置かれるのであり、これこそが原告らが共通に被っている被害である。

 「らい患者」はすべて死に絶えるべき存在と刻印する絶対隔離・絶滅政策において死に絶えるべき場である「療養所」に隔離収容されること、つまり、死に絶えるべき存在としての絶望、それ自体が原告らに精神的打撃を与え、その意識の奥底に深い傷を残すことになり、原告らは、大きく人間性を練外された。原告らは、いずれもあからさまに社会から引き抜かれ療養所への収容を受け、人間としての尊厳性を踏みにじられ、人格全体に立ち直ることのできない精神的打撃を受け、心身を大きく蝕まれたのである。

 原告らの多くは、入所する以前から療養所について、ハンセン病にかかった者が島流しにされて罪人のような扱いを受ける「鬼ケ島」みたいなところで、そこに入ったら二度とは故郷に戻ることはできず、そこでは強制的に断種堕胎をさせられ、死ぬのを待つだけの強制収容所というイメージを持っている。原告らは、療養所に入所させられることにより、自分はそのような施設に入れられるような人間で社会では無用の存在であるという強烈な人格否定の意識を植え付けられた。

 2 隔離

 ㈠ 隔絶の療養所へ

 海に隔てられ、あるいは高い壁や檜垣、鉄条網に囲まれた療養所に収容された患者は、この隔絶された施設の「患者地帯」に一たび足を踏み入れ、収容患者として扱われることによって、たちまち「らい者」として貶められた自分の立場を思い知らされることになった。

 ㈡ 収容による心理的ショック

 収容により、患者のそれまでの生活は抹殺される。まず裸にされ、下着まで含めてあらゆる所持品を取り上げられ消毒され、裸にして囚人服のような棒縞の服を着せられた。所持金は施設によって管理され、代わりに園内通用券を持たされた。これにより、彼が生きてきた社会、その中での生活をそっくり剝ぎ取られ、以前の生活とつながる社会の絆が断ち切られてしまうのである。

 療養所の職員はしばしば患者に横柄な態度をとり、苦しめた。入所時の職員の態度により受けた屈辱を今も怒りをもって語る原告は多い。患者は自己の容量を超えた怒りや悲しみにさらされる。

 ㈢ 園名による屈辱

 療養所在園者の多くは本名とは異なる園名を用いているが、これは、入所手続に当たって職員からそうすべきものと決めつけられ、強要されていたものである。誕生以来自分と共にあり社会との関係を培ってきた名前の剝奪もまた、入所者をして社会内に存在することの許されない者との自己認識を強いるものである。

 ㈣ 死体解剖承諾書

 多くの者は、入所に当たり、死体解剖承諾書に署名押印を求められた。これは、療養所で死すべき者との烙印であった。

 ㈤ 患者地帯と職員地帯の区別、過剰な予防着、消毒

 患者を受け入れる医療施設のはずでありながら、療養所の中は「患者地帯」(不潔地帯、有菌地帯) と「職員地帯」(清潔地帯、無菌地帯) に分けられ、患者は患者地帯の外に出ることが許されなかった。職員は、入所者と接する際、大げさな予防衣を身につけていた。このような予防衣は、医学的には全く不必要であることが早くから明らかであったにもかかわらず、その着用は近年まで続いた。園内学園の教師 (職員) も、予防衣にマスクで授業に臨み、授業が終わるや職員室前に設置されていた消毒液入りの洗面器に手を入れて消毒するなどした。

 また、入所者が外に出す郵便物は消毒された。青松園では昭和四七、八年頃まで郵便物の消毒が行われていた。

 ㈥ 劣悪な住環境

 療養所の住環境は極めて劣悪であった。