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体旅行に参加しようとしたところ、医務課長から、菌指数がプラス三であるという理由で、參加を許可されなかったことがあった。また、同原告は、昭和五〇年ころには、外出先で社会的な差別を感じることも多く、買物に行って代金を支払っても、そのまま受け取らず「金はそこへ置いといて。」などと言われたり、食堂で「作れませんから帰ってください。」などと言われたりすることがあった。

 同原告は、妻と共に社会復帰したいと考え、昭和四〇年代に何度か退所を申し出たが許可されず、現在まで療養所で暮らしている。

 8 原告八七番

 原告八七番は、昭和二三年一〇月に愛媛県で生まれたが、三歳のころ、ハンセン病であった母が死亡し、祖母に育てられた。同原告は、昭和三一年ころ、発病し、県の職員から、数回にわたる入所勧奨を受け、その際、祖母が「島流しをさすのはかわいそうな。」と言って抵抗したものの、結局、昭和三二年四月一六日 (当時八歳)、大島青松園に入所した。同原告は、大島青松園に向かう列車の中で、好奇の目にさらされ、つらい思いをしたことを今でも記憶している。同原告は、入所時に少女舎へ向かう坂を登っていったときの心境を「一歩一歩が暗いトンネルでも入っていくような感じ」だったと述べている。

 同原告は、同園内で義務教育を修了後、長島愛生園に転園し、同園内の邑久高等学校新良田教室に進学した。同教室在学中に唯一の頼れる肉親である祖母が死去したが、同原告は、参列に反対する親戚の意向で、葬式に呼ばれなかった。

 同原告は、同教室卒業後、再び大島青松園に戻り、昭和四五年九月に入所者同士で結婚したが、与えられた夫婦寮は障子一枚と廊下をはさんで他に二組の夫婦が暮らしており、心が安まるところではなかった。同原告は、昭和四七年と平成二年に妊娠したが、子を産み育てることを許さない療養所において、出産するということは選択肢として全く念頭になく、いずれも堕眙手術を受けた。

 同原告は、退所を全く考えたことがないという。いまだ社会性が育まれていない八歳という幼少の時期に肉親と引き離され、孤島でほとんど外界に接することなく大人になった同原告が、このような心境になるのは、正に隔離そのものがもたらした結果というべきである。

 9 原告一二六番

 原告一二六番は、昭和四年一月に高知県で生まれ、昭利二六年に結婚し、子をもうけたが、昭和四一年に離婚し、息子と二人で暮らしていた。同原告は、昭和四三年ころから、神経痛や斑紋が出て、病院で診察を受けたところ、病名を告げられることなく、大島青松園に行くようにと言われ、同園がらい療養所であることも知らないまま来園し、同年六月七日 (当時三九歳)、中学校二年生の息子を姉に託して入所することになった。息子と生き別れた同原告は、悲嘆にくれ、食事も取れず、次第に衰弱して一時危篤状態にまでなった。その後、同原告は、同年一二月に原告一二五番と結婚した。

 同原告は、買物をした際、店員が代金をはさみではさんで取ったときのことを鮮烈に記憶し、ハンセン病に対する社会的差別が根強いことを感じている。同原告は、手に後遺症を残し、ハンセン病に対する社会的差別を恐れる思いから、退所を考えたことはないといい、ただ、ひっそりと生を終えたいと考えて、現在まで療養所で暮らしている。

 二 退所経験のある原告について

 1 原告七番

 原告七番は、昭和二三年一一月、鹿児島県で生まれ、母が病死した後は父一人に育てられたが、昭和二九年ころから、発熱や斑紋が出るなどの症状が現れ始めた。同原告は、昭和三七年九月一曰、校長から突然「もう学校に来なくてよいから帰りなさい。」と言われ、その二日後、自宅を訪れた県の職員が父に「子供まで殺していいのか。」と言っていたのを漏れ聞き、父に言われるまま、同年九月五日 (当時一三歳)、星塚敬愛園に入所した。

 同原告は、入所の約一年後、二泊三日の帰省許可をもらい、喜び勇んで実家に戻ったが、父から「世間体があるから、もう帰ってきてくれるなよ。」と言われて愕然とし、その後、実家には帰らなかった。

 同原告は、昭和四三年一一月に同園から無断で退所し、関東方面でパチンコ店の店員や塗装工等の職を転々としたが、病状が再燃し、昭和四六年八月、診察を受けるつもりで多磨全生園を訪れたところ、医師の指示でそのまま入所することになった。同原告は、昭和五〇年五月、同園から星塚敬愛園に転園し、平成五年六月に初めて治癒したことを告げられたが、現在まで、療養所で暮らしている。

 2 原告一二番

 原告一二番は、佐賀県で生まれたが、昭和二三年 (当時一六歳) ころ、九州大学病院でハンセン病と診断され、ここでは新薬が手に入らないから菊池恵楓園に行くように勧められて、同年三月、同園に入所した。同原告は、昭和三三年に原告一六番と結婚し、昭和三四年四月に妻が妊娠していることが分かった。同原告は、何とか出産させたいと考えたが、療養所で子を産み育てることはできないとあきらめ、妻は堕胎手術を受けた。その後、同原告は、優生手術を受けなかったが、婦長から何度も優生手術を受けるように言われた。

 同原告は、退所したい一心で治療を受け、昭和三七年に菌陰性となった後、昭和四一年にようやく退所を許可され、退所後は、山林を切り開いて作った鶏舎で養鶏をした。

 同原告は、平成二年に後遺症があった足の傷が悪化して同園に再入所し、現在まで、療養所で暮らしている。

 同原告は、自分の病気のために、妹の結納まで交わした縁談が破棄されたという。また、同原告は、家族に差別が及ぶことを恐れて、平成元年に死去した父の葬儀にも出ず、平成一〇年の養女の結婚式にも参列しなかった。

 3 原告三一番

 原告三一番は、昭和一〇年六月、宮崎県で生まれたが、一三歳のころから両手の握力がなくなるという症状が現れ、昭和二五年一一月、学校の教師に連れられて保健所に行き、さらに、星塚敬愛園に診察を受けに行って、同年一二月一一日 (当時一五歳)、同園に入所した。

 同原告は、昭和三八年一〇月に治癒と認められて退所し、実家に戻ったが、入所時に実家が消毒を受け、自分が療養所に入所したことが近隣に知れ渡っていたことから、周囲の差別・偏見を感じながら生活をした。同原告は、新聞配達の仕事をしたが、三か月くらい経ったところで、雇用主から「あの人が配るんであればもう新聞はいらない。」という苦情があることを聞かされ、配達地域の変更を余儀なくされた。同原告は、差別・偏見から逃れるために転居を重ね、入所歴をひた隠しにして、現在まで暮らしている

 4 原告四二番

 原告四二番は、昭和九年一〇月、沖縄県で生まれたが、二一歳ころから斑紋が現れ始め、二二歳ころから、顔が腫れるようになった。同原告は、昭和三四年ころ、小さな自動車修理工場を経営していたが、医師から沖縄愛楽園で検查を受けるように言われ、同年三月二八日 (当時二四歳)、同園で検査を受けたところ、ハンセン病と診断され、帰宅も許されず、妻子を残して、そのまま入所することになり、工場を手放さざるを得なくなった。同原告は、同園に入所したことを妻に隠し、別の病気で入院していると告げていたが、妻にハンセン病のことが分かると、妻から「もう来るな。」と言われて絶縁状態となり、昭和四二年に正式に離婚した。

 同原告は、昭和三九年八月に同園を退所し、入所歴を隠して自動車整備工として働き、自分の工場を持つまでになり、同園の退所者を数名雇ったりしたが、ハンセン病患者だといううわさが立ち始めたころから急に経営不振となり、工場を手放さざるを得なくなった。同原告は、再婚した妻の兄弟から、ハンセン病のことであからさまに差別的な言動をされたこともあった。

 同原告は、ハンセン病の症状が顔に現れるようになり、差別を恐れる妻から、遠くの療養所に入ってほしいと言われ、昭和五四年一二月、星塚敬愛園に入所し、昭和五八年五月に軽快退所して沖縄に戻ったが、また、再発し、平成四年一一月ころ、多磨全生園に入所し、平成五年六月に宮古南静園に転園して、現在に至っている。

 5 原告四三番

 原告四三番は、昭和一五年五月に大阪府で生まれ、それまで病気であるとの自覚はなかったが、小学校六年生のときに学校の健康診断で異変が見つかり、大阪大学病院で診察を受け、母に言われるまま、昭和二七年五月一日 (当時一一歳)、長島愛生園に入所した。同原告は、昭和三五年の父の葬儀の際、母から、参列しないように言われ、それ以来、実家に帰っておらず、その後、自分の知らない間に家族が転居していたこともあって、音信が途絶えた。

 同原告は、昭和四八年ころ、二度と戻らないつもりで同園を抜け出したが、就職に苦労し、新聞の勧誘や集金等の仕事をして生活した。同原告は、昭和五二年、昭和五八年、平成元年の三度、足の後遺症や再発の治療のため、多磨全生園に一時入所した。そして、同原告は、平成五年に長島愛生園に入所し、現在に至っている。

 6 原告一二〇番

 原告一二〇番は、大正一四年九月に岡山県で生まれ、それほどの症状は出ていなかったが、昭和一一年に父と共に連行され、同年七月二一日 (当時一〇歳) に大島青松園に入所した。同原告は、昭和二一年に原告一二一番と結婚し、昭和二二年に優生手術を受けた。

 同原告は、昭和三八年四月、同園を軽快退所し、先に社会復帰をした退所者を頼って関東方面に出て、入所歴を隠してボールベアリングの会社に就職し、研磨工として稼働ママした。幼いころに入所した同原告は、それまで社会生活をほとんど経験しておら ず、電話の掛け方も分からないような状況でとまどったが、翌年一一月には、妻を呼び寄せて、二人で暮らし始めた。しかし、同原告は、後遺症の残る足の腫れがひどくなり、元入所者であることが発覚することを恐れて病院にも行かないまま無理を重ねたことから、更に症状を悪化させ、結局、昭和四二年五月に妻と共に大島青松園に再入所した。同原告は、約四年間の社会での生活について、差別を恐れて病気をひた隠しにし、多くの苦労を重ねたが、それでも、人生の中で貴重なものだったと述べている。

第三 包括一律請求の可否及び共通損害の内容等

 一 前記第二で概観したとおり、原告らが被った被害の全体を直視すると、その被害は極めて深刻であると言うべきであるが、本件は、新法及びこれに依拠する隔離政策による被害に関するこれまで例を見ないような極めて特殊な大規模損害賠償請求訴訟であり、その被害は、短い者 (原告一一番) でも、昭和四八年以降新法廃止ころまでの二三年間という極めて長期間にわたる上、その内容も、個々に取り上げると、身体、財産、名誉、信用、家族関係等、社会生活全般に及ぶ実に多種多様なものであって、その一つ一つにつき、立証を求めていたのでは、訴訟が大きく遅延することは明らかであり、真の権利救済は到底望めず、また、訴訟運営上も明らかに相当でないこと、もともと、慰謝料には、個別算定方式による場合であっても、各費目の損害を補完・調整して、全体としての損害額の社会的妥当性を確保する機能があることなどからすれば、原告らが主張する被害の中から、一定の共通性の見いだせる範囲のものを包括して慰謝料として賠償の対象とすることは、許されなければならない。

 二 原告らは、本件の共通損害を、社会の中で平穏に生活する権利と表現しているが、その中身として、個々に挙げているところは、極めて多岐にわたっている。このうち、財産的損害、特に逸失利益については、慰謝料算定の根拠を著しくあいまいにするものである上、本件において、これに一定の共通性を見いだすことは困難であるから、これを許容することはできず、また、身体的損害 (断種、堕胎、治療機会の