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ない問題であって、高度の立法裁量の問題と不可分であると指摘する。

 確かに、新法の隔離規定を改廃した場合には、新法全体が見直される可能性も高いであろうし、その場合に入所者にいかなる処遇を与えるかの問題も生じるであろうが、これは、新法が廃止されたときに考慮すべき別の立法政策上ないし立法技術上の問題であり、そのように考慮すべき立法政策上ないし立法技術上の問題が生ずることが、法解釈上直ちに、新法の隔離規定の改廃義務の消長を来すものとする根拠は見いだすことはできず、被告の主張は、この立法政策や立法技術の問題と法的義務・法解釈の問題とを殊更に結び付けようとするものであって、失当である。

 被告は、新法を存続させながら、隔離条項のみを削除する内容の法改正は、自由の制限という予防法としての本質を失わせ、このような制限規定があるがために特段の各種福祉的措置を採り得るという新法の建前を崩すことになるから、法廃止とともに社会福祉立法をするのと同様の結果をもたらすことになるとも主張する。

 しかしながら、新法の隔離規定のみを削除することによって、福祉的な規定が残ることになったとしても、それは、あくまで反射的な結果にすぎず、新たな社会福祉立法を行うのと同視するのは明らかに論理の飛躍である。被告の右主張もまた失当である。

 なお、付言するに、違憲・違法な人権侵害があっても、それが福祉的措置の根拠となったり、その人権侵害に対する福祉的措置が採られれば、右人権侵害が許容されるものとなるものではないことは当然である。

 四 以上のとおりであって、国会議員には、昭和四〇年以降においても、なお新法の隔離規定を改廃しなかった点に違法があり、国会議員の過失も優にこれを認めることができる。


第五節 損害について (争点三)

第一 原告らの主張

 原告らは、被告の違法行為によって受けた損害を、①隔離による被害、②烙印付け被害 (スティグマによる被害)、③退所者の被害等、様々な角度から分析しつつ、これらを総体として、社会の中で平穏に生活する権利を侵害された被害として包括的に評価すべきであるとして、原告らに共通の損害 (以下「共通損害」という。) につき、いわゆる包括一律請求をしている。

 そこで、以下では、まず、原告らの被害の実態を概観し、次いで、包括一律請求の可否及び本件訴訟で賠償の対象となる共通損害の内容等について検討し、最後に、賠償額の算定について論じる。

第二 原告らの被害の実態の概観

 以下では、原告本人尋問を実施した数名の被害状況を見ながら、原告らの被害の実態を概観する。

 一 退所経験のない原告について

 1 原告五番

 原告五番は、昭和二年四月に沖縄県の石垣島で生まれ、昭和一四年四月に沖縄本島にある高等女子学校に進学したが、昭和一五年一二月 (当時一三歳)、皮膚の一か所にわずかな異変があることを見つけた教師から、診察を受けるように言われたことがきっかけとなって、父と共に、星塚敬愛園を訪れた。その途中、同原告は、垂水港からタクシーで同園に行こうとしたところ、同園に行く患者を乗せられないとして乗車を拒否され、ハンセン病に対する社会的差別の厳しさを初めて思い知らされた。同原告は、診察を受けるだけのつもりであったが、同園でハンセン病と診断され、そのまま入所することになった。同原告の症状は軽く、大風子油の治療でほとんど症状がなくなり、わずかの期間プロミン治療を受けた後は、ハンセン病そのものの治療を受けていない。

 同原告は、入所当時から退所に強い意欲を持ち、昭和二一年三月、社会復帰につながるのではないかとの思いもあって、軽症の男性入所者と結婚した。なお、結婚時に、夫が優生手術を受けたことから、子をもうけることはなかった。同原告ら夫婦は、結婚当初、他の三組の夫婦と共同の一二畳ほどの大部屋に入居したが、昭和二五年に四・五畳のささやかな個室を与えられた。夫は、昭和三八年ころ、無断外出を繰り返して自動車の運転免許を取得し、社会復帰のために一〇年近く就職活動を続けたが、ハンセン病に対する差別・偏見が根強い中で療養所が住所となっていることが障害となり、就職先を見つけることができなかった。こうして、同原告は、社会復帰を果たすことができず、現在まで療養所で暮らし続けている。

 2 原告九番

 原告九番は、大正一一年三月に鹿児島県で生まれ、学校を卒業後、両親の下で家業の農業を手伝っていたが、昭和一六年ころから、顔に少しずつ皮膚の異変が現れるようになった。そして同原告は昭和二五年ころから、役場の職員等から、うつる病気だから特別の病院に入らなければならないと強く入所を迫られるようになった。あくまで入所したくないと考えた同原告は、自宅から離れた山奥の小屋で一人暮らしをすることにしたが、その後も、執拗な入所勧奨が続き、「どうしても行かなきゃ手錠を掛けていくぞ。」、「山狩りをしてでも連れていく。」などと言われ、自殺も試みるまでに追い込まれた末に昭和二八年三月一三日 (当時三一歳) に星塚敬愛園に入所することになった。

 同原告は、昭和三〇年に入所者同士で結婚したが、夫が結婚時に優生手術を受けたことから、子をもうけることはなかった。昭和四四年ころ、夫の目が見えなくなり、耳も聞こえなくなったことから、同原告は、その看病に専念したが、昭和五四年に夫が死去した。同原告は、夫の兄に葬式に出てくれるよう頼んだが、「家族にも隠してあるから、行けません。」と言って断られ、その後も音信はない。同原告は、現在まで、療養所で暮らし続けている。

 3 原告一一番

 原告らの中で入所時期 (再入所を除く。) が最も遅い原告一一番は、昭和一〇年八月に〇〇ママ県で生まれ、昭和三七年ころ、あこがれていた〇〇〇〇ママとなり、昭和三九年に結婚し、二人の子をもうけた。同原告は、昭和四八年六月ころ、勤務中に受傷し、その治療を終えて、同年八月に復職しようとした際、職場の上司から、よくない病気だから自宅で待機するようにと言われた。その後、突然、自宅を訪れた県の職員と〇〇〇〇ママ園副園長が同原告を診察し、病名を告げることなく、再診察を受けるようにと述べたことから、同原告は、昭和四八年八月二一日 (当時三七歳)、〇〇〇〇ママ園がらい療養所であることも知らないで、普通の入院程度のつもりで同園を訪れ、妻と二人の子を残して、そのまま入所することになった。

 同原告は、入所後、他の入所者や看護婦から、短期間で退所することなどできないと聞かされ、医師に退所を申し出ても取り合ってもらえなかったことから、絶望し、自殺を考えて包丁を購入したりもした。

 同原告は、昭和五六年ころ以降、妻ががんで入院したことから、自宅で子供の面倒を見、療養所外で就労するという自宅、職場、療養所を行き来する生活を送っており、療養所に完全に縛られた生活をしていたわけではないが、入所により職を失い、人生を大きく狂わされたことは明らかである。

 4 原告一五番

 原告一五番は、昭和八年一〇月に宮崎県に生まれ、昭和一八年に父が病死した後は女手一つで育てられた。同原告は、小学校三年生ころ、膝に数センチメートル程度の斑紋ができたが、だれからも指摘されることなく、治療も受けずにいたところ、昭和二二年と昭和二三年の二度にわたって、自宅を訪れた保健所の職員から入所勧奨を受け、さらに、昭和二四年の春、予防着を身に付けて診察に訪れた医師らから、入所を迫られたが、いずれも母がこれを断った。しかし、三回目の入所勧奨で、同原告がハンセン病であるとのうわさが近所に知れ渡ったため、村八分のようになり、自宅を訪れる者がいなくなったり、姉が破談になって「このうちにはいたくない。」と言って家を飛び出したり、弟や妹の遊び相手がいなくなって孤立するなどした。このような状況に耐えられなくなり、同原告は、昭和二四年一一月三〇日 (当時一六歳)、星塚敬愛園に入所し、家族もこれと同時に差別を避けるため転居を余儀なくされた。

 同原告は、入所後一年経ってようやく一週間程度の帰省を許され、その後も昭和三五年ころまで、一年に一度帰省をしていたが、その後は、家族に迷惑が掛かることをおそれて帰省をしなくなった。ハンセン病に対する差別・偏見のため、同原告は、弟や妹の結婚式にも呼ばれず、彼らの配偶者と一度も会ったことがなく、母の死も初七日の後に知らせを受けた。同原告は、現在まで、独身のまま、肉親との音信もなく、療養所で暮らし続けている。

 5 原告三四番

 原告三四番は、昭和五年二月に宮崎県で生まれ、昭和二〇年三月に国民学校高等科を卒業後、家業の農業を手伝っていた。同原告は、昭和二四年ころ、皮膚の異変で医師の診察を受けたが、その数日後、保健所に呼び出されて、ハンセン病であることを告げられた。その後、同原告は、頻繁に入所勧奨を受け、隣家から村八分のような扱いを受けるようになったことから、両親と泣き崩れて別れを惜しみながら、昭和二六年一〇月三〇日 (当時二一歳)、星塚敬愛園に入所した。

 同原告は、入所当時、熱こぶが出るような状況であったが、病棟看護等の患者作業を割り当てられ、これに従事せざるを得なかった。同原告は、昭和三三年ころ、菊池恵楓園に転園したが、そこでも、昭和四八年ころまで不自由舎付添い等の患者作業に従事した。

 同原告は、一人娘であったことから、退所して家を継ぐつもりであったが、昭和四二年に両親が養子を迎えた後、ハンセン病患者に対する社会的差別をおそれる母から、帰ってくるなと言われるようになった。

 入所時に別れを惜しんだ肉親ですら、帰ることを拒むようになるのはハンセン病 に対する差別・偏見があったからであり、これにより、入所者が被った精神的苦痛には、並々ならぬものがあるというべきである。

 6 原告六七番

 原告六七番は、昭和四年三月に岡山県で生まれ、ハンセン病で入所勧奨を受け自殺した父の後を継いで農業を営んでいたが、昭和二五年ころ、発病した。そこで、同原告は、大阪大学病院に通い、当時としては非常に高価だったプロミンを数回分持ち帰って投与し、これにより症状が落ち着いて、昭和二九年一二月には結婚をし、子をもうけた。ところが、同原告は、昭和三一年ころから、再び症状が現れ、何度も入所勧奨を受けるようになった。同原告は、あくまで自宅での治療を臨ママんだが、大阪大学病院でプロミンの持ち帰りを断られ、やむなく、昭和三五年九月 (当時三一歳)、妻子を残して長島愛生園に入所した。入所後しばらくは、農作業の手伝いに年二回帰省していたが、その期間は一週間に厳しく制限された。

 同原告は、入所後三年ほどのプロミン治療で、ハンセン病自体の症状はなくなったが、療養所での養豚作業中に麻痺している足を受傷し、それ以来足の治療を受け続けている。同原告は、足の治療のため、一時多磨全生園に転園しているが、退所することなく、現在に至っている。

 7 原告八四番 (なお、同原告は退所経験があるが、戦前のことであるので、ここで紹介することにした。)

 原告八四番は、昭和三年一月に徳島県で生まれた。同原告は、幼いころからハンセン病の症状が現れ、昭和一七年七月二一日 (当時一四歳)、邑久光明園に入所したが、昭和二〇年五月に同園から逃亡し、実家に戻った。しかし、同原告は、昭和二三年に保健所から度々入所勧奨を受け、以前は手に入った大風子油も手に入らなくなったことから、同年五月三一日 (当時二〇歳)、大島青松園に入所した。

 同原告は、昭和二五年二月に入所者同士で結婚したが、当時は、女性一二人が住む二四畳の大部屋に毎夜通わねばならず、惨めな結婚生活を味わい、昭和三〇年にようやく四・五畳の部屋が与えられた。

 同原告は、昭和四〇年ころ、入所者の団