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の証言をしている。

 以上からは、昭和五〇年代ころから、療養所においては、入所者の無断外出を積極的に取り締まることがなくなり、また、外出許可申請があった場合には、伝染させるおそれの有無にかかわらず、また、新法一五条一項各号の許可事由の有無にかかわらず、これを許可する方向で運用していたことが認められ、入所者の拘束感,被害意識もこれに伴い次第に軽減されてきたものと考えられる。

 しかしながら、新法廃止のところまでに、厚生省や療養所が外出制限を事実上撤廃するなどということを公式に表明したことは一度もない。かえって、昭和五七年三月一八日の衆議院社会労働委員会において、三浦大助厚生省公衆衛生局長は、「新患の発生が、しかも若い層にもあるという以上、やはりこれは一つの伝染病として対策をしなければならぬと思っております。」、「対策の手は緩めるわけにはまいらぬというふうに考えております。」と述べ、隔離政策が誤りでなかったのか新法が空洞化し死文化しているのではないかとの質問に対しても、「隔離のお話が大分出ておるのですが、伝染力が弱いとはいえこれは伝染病でございますので、ある程度の一定の制限というのは仕方ないと思うのですけれども、ただ人権につきましては、私ども本当に十分に注意を払っておるわけでございます。」と述べており、この時点においてもなお、厚生省は、ハンセン病患者に対する人権制限の必要性を公式には否定していないのである。

 五 優生政策について

 昭和二三年の優生保護法の制定によって、ハンセン病を理由とする優生手術や人工妊娠中絶は、本人及び配偶者の同意を得て行われることになった。昭和二四年から平成八年までに行われたハンセン病を理由とする優生手術が一四〇〇件以上、人工妊娠中絶の数が三〇〇〇件以上に上ることは前記第二の二のとおりである。

 ところで、我が国の療養所においては、ある時期まで、優生手術を受けることを夫婦舎への入居の条件としていたことから、入所者は、結婚して通常の夫婦生活を営むために優生手術を受けることを甘受するか、あるいは、結婚して通常の夫婦生活を営むことを断念するか、そのどちらかを選択せざるを得ない状況に置かれていた。

 このことは、平成八年三月二五日の衆議院厚生委員会でも取り上げられ、松村明仁厚生省保健医療局長は、「かつて療養所の夫婦寮への入居の条件として優生手術に同意をせざるを得ない状況であったという指摘がされており、そのような意味での半強制的な優生手術につきましては、おおむね昭和三〇年代前半、遅くとも昭和四〇年代以降には行われていないという関係者の共通の認識でございます。(中略)ママ昭和二四年から昭和四〇年までのハンセン病患者またはその配偶者に対する優生手術件数を申し上げますと、男性二九五件、女性一一四四件、合計一四三九件である、こういう数字がございます。」と答弁している。

 なお、星塚敬愛園では、昭和六〇年一〇月発行の「入園者五〇年史」には、昭和二八年三月以降、ワゼクトミーを受けなくても夫婦舍に入居できるようになった旨の記載があるが、これで優生政策を利用した産児コントロールが終わったわけではない。右「入園者五〇年史」には、当時の星塚敬愛園長が、入所者自治会と協議をした際に、「今後は、ワゼクトミーを夫婦寮の入居条件としない。ただし、妻が妊娠した場合は、夫に断種手術を施すことは当然である。また、女性が妊娠したときは、早く申出て、不幸を招かぬよう入園者側も協力してもらいたい」と述べたことが記されているのである。

 六 患者作業について

 戦前、入所者には身体的に可能である限り患者作業と呼ばれる労働が割り当てられ、職員の人員不足が恒常化していた当時の療養所の運営を支えていたが、戦後になっても、このような状況はなかなか改善されず、療養所運営は、患者作業に依存するところが大きかった。

 新法施行当時の患者作業は実に多種多様で、治療・看護部門から、給食、配食、清掃、理髪、火葬など、生活全般に及んでおり、中にはハンセン病患者に行わせることが不適当な重労働も含まれていた。新法施行後、患者作業を拒否すれば懲戒処分をするといったような意味での強制はなくなった。しかしながら、療養所運営のかなりの部分を患者作業に依存していた状況で、患者作業の放棄は、入所者自身の生活・医療に直結する問題であったことから、多くの入所者は好むと好まざるとにかかわらずやらざるを得ないというのが実情であった。

 全患協は、このような患者作業を療養所職員に返上するいわゆる作業返還を運動の大きな柱として、ねばり強く活動を続けた。その結果、特に、昭和四〇年代以降に作業返還が進んだ。例えば、長島愛生園では、昭和三八年に屎尿汲取等七種類の作業が、昭和四七年に看護作業が、昭和四八年に火葬、薬配、雑工等一一種類の作業が、眧和五〇年に残飯回収、焼却、金工、塵芥集、木工、塗工の六種類の作業の返還が完了するなど、昭和三六年から昭和五五年ま でに四一種類の作業返還が行われた。また。ママ星塚敬愛園では、昭和四四年一〇月に 不自由舎付添作業が返還されるなど、昭和四一年から昭和六〇年四月までに四二種類の患者作業が返還され、大島青松園でも、昭和五〇年二月に看護作業の返還が完了した。

 なお、和泉は、証人尋問において、患者作業によって後遺症を残した入所者が多く、「日本の療養所ほど障害の強い患者というのはありません。で、これは、患者さんに聞いてみると、大部分の所で作業によって病気を悪くしたというふうなことを言われておりますので、所内作業というのが、相当日本の患者さんの症状を悪くしたと思っています。」と証言している。また、長尾も、証人尋問において、患者作業によって後遺症を残した患者がいることを認めている。

 七 療養所における生活状況の変遷

 新法施行当時の療養所の生活状況は、極めて厳しいものであった。

 住環境については、一二畳半に八人あるいは夫婦四組が居住するということも珍しくなかった。菊池恵楓園では昭和四〇年に一人四・五畳の個室を備えた居住棟が新設されたが、これは他の療養所よりも早い個室の導入であり、当時、六畳二人制であった長島愛生園などでは、同年以降、一人四・五畳の個室整備を要求する運動が起こった。こうして、少しずつ居室の個室化が進み、夫婦舎も一室から二室になるなど、徐々に改善が行われた。

 医療面では、人員不足が深刻で、十分な整備がなされるまで長い年月を要した。昭和五八年当時の全患協ニュースによれば、同年一月一日現在の医師数は定員の一三六人に対して一一六人で、「全国一三の施設のうち一施設だけが充員され、残る施設は定員を充員できずに四苦八苦しているのが実状」であったとのことであり、高齢化により様々な疾患を抱える入所者の医療充実を願う切実な思いと不安感が伝わってくる。とはいえ、療養所における医療の充実は少しずつではあるが着実に進んでいった。高齢者、視覚障害者、身体障害者のためのいわゆる三対策経費は、年々増額され、昭和五九年から平成八年にかけて約二倍に増額された。国立らい療養所全体の予算も同様で、昭和四八年から平成八年までにかけての予算額は、入所者数が約五分の三に減少する中で、約八七億〇九〇〇万円から約四〇一億五一〇〇万円と約四・六倍に増額された。

 また、昭和四八年には、入所者に給付される患者給与金が障害基礎年金一級と同額に引き上げられ、入所者の経済状態の向上が図られた。

 このような入所者に対する処遇改善は、大谷が国立療養所課長となった昭和四七年以降の厚生省の一貫した政策の流れであった。これは、入所期間の長期化や入所者の高齢化により多くの入所者にとってもはや社会復帰が極めて困難な状況となり、隔離政策を廃止するだけでは到底妥当な解決が図られないという軌道修正の困難な現実を踏まえて、入所者に療養所で少しでも充実した余生を送らせたいという考えの現れでもあった。

 ただ、他方、厚生省は、このような処遇改善に必要な予算を獲得するために、大蔵省に対し、新法の隔離条項の存在を強調し、これを最大限利用してもいた。この点について、大谷は、「多少小役人的ではありますけれども、やはりらい予防法によって強制隔離しているんだから、国としては当然これだけのことをしなければならないのではないかということは、大蔵省のお役人方に対しての説得が非常に楽であったということですが、今日になってみますと、 やはりそれは本質をちょっと誤っていたなという反省はあります」と証言し、その著書「現代のスティグマ」等でも「当時の私はらい予防法をフルに利用して、大蔵省に療養所改善の要求をし」たなどとして、同旨の記述をしているが、これは、公的には隔離政策を掲げつつも、入所者の退所や外出を黙認する形で開放的な取扱いをしていた当時の厚生省の立場を如実に表している。前記四3で述べた昭和五七年三月一八日の衆議院社会労働委員会における厚生大臣や厚生省公衆衛生局長の答弁も、右のような厚生省の立場からは、むしろ当然の内容といえるのである。

 八 療養所以外の医療機関での治療等について

 1 療養所以外の医療期間での治療の実情

 新法は、療養所以外の医療機関によるハンセン病の治療を明文で禁止してはいない。しかしながら、「伝染させるおそれがある患者」を極めて広く解釈して未治療のハンセン病患者のほとんどすべてをこれに該当するものとし、そのすべてを療養所への入所対象としていた厚生省のハンセン病政策からすれば、ハンセン病の治療を行う療養所以外の医療機関がごくわずかであったのは当然である。

 のみならず、抗ハンセン病薬は保険診療で正規に使用できる医薬品に含まれていなかった。この点については、証人和泉がその実情を詳しく述べているが、三浦厚生省公衆衛生局長も、昭和五七年三月一八日の衆議院社会労働委員会において、「どこかの大学病院へ行ったというような場合 (中略)ママらい専門の治療薬は保険の適用になっておりませんので使えないわけでございます。」と答弁している。これもまた、療養所中心主義ともいうべき厚生省のハンセン病政策の現れであって、ハンセン病の治療が受けられる療養所以外の医療機関は極めて限られたものとならざるを得なかった。

 新法の下で、療養所以外の医療機関でハンセン病の治療を行っていたのは、京都大学、大阪大学等の大学病院や愛知県の外来診療所等、数か所であり、しかも、この中で、入院治療が可能であったのは、京都大学だけであった。京都大学では、ハンセン病との病名をあえて付けず、末梢神経炎、皮膚抗酸菌症等の病名で診断していた。また、大阪大学では、すべて自費診療であった。愛知県の外来診療所は、財団法人藤楓協会の事業として昭和三八年に開設されたものであるが、診療の対象は主に元療養所入所者であり、療養所に入らないで治療を受けた患者は、二〇年間で一五人程度であった。これらの医療機関でハンセン病の治療が受けられることも、一般にはほとんど知られていなかった。

 このような状況について、厚生省医務局国立療養所課が昭和五〇年九月に発行した「国立療養所史 (らい編)」(国立療養所史研究会編集) において、石原重徳 (当時駿河療養所長) は、「治療を受けるためにはどうしてもらい療養所へ入らねばならないのである。このことは (中略) らいの強制隔離にほかならないのである。」と記述しているが、これが、当時の少なからぬハンセン病医療関係者の現状認識であったと考えられる。

 2 療養所における外来治療