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Page:GovernmentCompensation-Trial Judgement-HanreiJihō.djvu/29

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た。

 このように、退所者のための社会復帰支援事業は、入所者の置かれた状況に照らすと、到底十分なものであったとはいえなかった。

 四 外出制限について

 1 新法一五条による極めて厳しい外出制限は、すべての入所患者に対し法律上当然に課せられているものであり、これに違反した場合の罰則も設けられているのであるから、右規定が存続する以上、外出制限自体が全くなくなるものではない。

 2 外出制限は、運用上徐々に緩やかになっていったが、以下のような事情からもうかがわれるように、まだ昭和三〇年代ころまでは、厳格な取扱いも存した。

 ㈠ 多磨全生園長は、昭和二八年一〇月一六日付けで、厚生省医務局長に対し、昭和二五年より行われていた同園と栗生楽泉園との間の患者親善団の交歓について、「患者の往復は園の事業として職員附添いの下に途中下車を認めず、らい予防上支障のない方法を執れるので親善団派遣を行っても差し支えない様に思われますが、然し新予防法制定後の今日些か疑義ありと存じますので念のためにお伺い致します。」と照会をした。

 これに対し、厚生省医務局長は、同月三〇日付けで、「患者の療養上不適当と認められるから取り止められたい」と回答し、かつ、このことを同日付けで各療養所長に通知した。

 これは、職員付添いの下で行われる療養所間の親善団の派遣についてまで、厚生省が厳しく制限する場合があったことを示すものであって、当時の外出制限の実情をうかがわせるものである。

 ㈡ 全患協ニュース (昭和三〇年一一月一日発行) には、「最近所内高校の開校式に前後して愛生園を訪ねた他園の療友が園の職員によって入園を拒否され追い帰された事件が起こった。訪問した療友らはそれぞれの園が発行した正規の外出証明書を所持していたにもかかわらず、その行先地が愛生園となっていない理由で、また『患者が患者に面会することは許可されない』とかの理由で、目指す園を目の前にして引き返さねばならなかった。」との記事が掲載されている。

 なお、右記事に関連するものと思われるが、厚生省医務局国立療養所課長は、昭和三一年四月九日付けで、各療養所長に対し、「そく聞するところによれば、来る四月一六日の長島愛生園における入所患者の高等学校入学式に、各国立らい療養所の入所患者の一部が参加し、更に同園において会合を催す目的のもとに、入学者の附添又は長島愛生園の患者に面会の名目で同園に赴くやの趣であるが、いうまでもなく、このような目的又は名目による外出は、らい予防法第一五条の規定により認められないものであるから御了知の上処理されたい。なお、右の外出のために、らい予防法第一五条の規定に適合する外出目的によって許可を求めることも予想されるので、この期間の前後において、外出許可の申請があった場合には、外出の目的、行先地及び経由地等について十分に検討を加えることは勿 論更に入学式又は会合に参加するおそれがないことを確認する等その取扱には特に慎重を期されたい。」と通知をした。

 ㈢ 熊本簡易裁判所は、昭和三三年三月二八日、菊池恵楓園のある入所者を無断外出の罪 (新法二八条一号) により科料に処した。これを報じた全患協ニュース (同年五月一日発行) によれば、無断外出の期間は約二か月であり、「昨年秋農繁期に一時帰省し、家事の手伝いをすませて帰園の途中、当時問題になった『脱走患者一斉検束』の網に引っかかった」とのことであるが、この事件だけがなぜ略式起訴にまで至ったのか、その具体的経緯は明らかでない。被告は、無断外出に対する刑罰適用例がこの一件であると主張するが、この事件がもたらした抑止的効果には相当なものがあったと推察される。

 ㈣ 昭和三五年一月一一日の読売新聞には、多磨全生園に入所していた女性の死体が発見された事件に関連して、「野放しのライ患者」との見出しで、「同園の収容患者たちは園の周囲のいけガキにいくつも穴をあけて、無断外出用通用門をつくり、買い物から飲酒、競輪がよいまでしており、地元民の心配顔をよそに野放し状態にあることが分かり、問題となっている。」、「外出は親族の死亡、財産処分、相続など特殊な事情がある者以外は許されない。それも厳密な健康診断を行ない、感染の恐れがないと認められた軽症者にかぎって園長から許可書が発行されている。これ以外はすべて違反外出というわけだ。(中略)ママ同園では係り員五人を昼夜の別なく巡視させており、禁をおかして外出しようとして発見されるものが毎月一〇人ないし二〇人もいる。(中略)ママ周囲には約二メートルの高さでヒイラギのいけガキがあるが、患者はノコギリやナタでカキを破り、係り員は修理するヒマもないほどだ。(中略)ママ地元民のあいだでは早くからこれが問題となっており、こんな野放し状態ではいつわれわれに感染するかも知れぬと内心おののいている」との記事が掲載され、多磨全生園庶務主任は「まったく困っている」、「患者の人権は守らねばならず、といって野放しにして一般社会に迷惑をかけてはならない。それだけに運営がむずかしい。違反外出にはまったく頭を痛め職員一同はつねに気をつかっている。」と述べ、厚生省医務局国立療養所課は「無断外出が多いということが本当なら施設、患者に厳重に注意する」と述べたとしている。

 ㈤ 多磨全生園の自治会長である甲野太郎の著書「人生に絶望はない」(平成九年発行) には、次のようなエピソードが紹介されている。すなわち、「園内のわたしの友人も社会復帰をするので何か技能を身に付けて外に出たいということで、外の学校に通っていました。でも当時の園はそれを許さない。そこでわたしとその友人は園を囲う垣根のところまで行き、友人はそこで服と靴を着替えてこっそりと出て行く。わたしは、そのことがばれないように彼の脱いだものを持って帰る役でした。これに対して園は、職員が犬を連れて巡回して外出を阻止しようとしていました。一度犬に追いかけられて (中略)ママ犬にかみつかれたこともありました。自立して社会に出ようとする人たちに対しても、園はそういう対応をとっていたのです。(中略)ママ六〇年代後半になるとようやくゆるやかになりましたが、それまでは予防法で規定する『無断外出』として処罰されたのです。」というものである。

 なお、無断外出を取り締まるための物理的な障壁は、次第になくなる傾向にあったが、多くの療養所は、交通の便が極めて悪いへき地にあり、実際上外出に相当の困難の伴うところもあった。特に、大島青松園は、療養所の施設以外は何もない瀬戸内海の孤島にあり、療養所が運行する船を利用する以外に島外に出る正規の手段はなかった。また、長島愛生園と邑久光明園も、ほぼ同様の立地条件で、昭和六三年に本州と架橋されるまでは、島外に出るには船を利用するほかなかった。これらの療養所は、正に隔離施設と呼ぶにふさわしい立地条件を備えていた。

 3 これに対し、主に昭和五〇年ころ以降の外出制限の実情をうかがわせる事情として、被告は、次のような点などを挙げる。

 ㈠ 入所者の著書等

  ⑴ まず、被告は、星塚敬愛園の元入所者である原告六番が、昭和五四年四月発行の「火山地帯」において、「現在の癩療養所は外出も自由になり、病友たちはマイカー、単車を乗り廻している。生活処遇も悪くはない。最低拠出制障害年金一級が保障されている。有名無実となっている予防法を下手につついて、一般障害者並みに生活処遇が切り下げられては叶わない。本音はそこにあったのだ。」と記述していることを挙げる。

 しかしながら、右の部分は、当時の入所者の中にあった新法改正慎重論の根拠を、これを批判する立場から推測して述べたものにすぎず、当時の療養所の実情をある程度うかがわせるものではあるが、自己の実感をそのまま表現したものではない。

  ⑵ また、被告は、多磨全生園の自治会長であった乙山春夫の「戦後、特効薬の出現によってハンセン病から解放され、政府はまた、隔離収容所から解放療養へと政策を転換し、外出が自由になった。かくて人間復帰の道がひらかれた時、私は失明し、一切の自由を奪われた。」という文章を挙げる。

 しかしながら、この文章は、甲一の中での紹介部分が余りにも短く、外出の自由というのがどの程度のことをいうのか、その真意はつかみ難い。

  ⑶ さらに、被告は、甲野太郎の前記「人生に絶望はない」の中の「一九六三年には全生園を囲っていた二メートルもの柊の垣根も低く切られ (中略)ママ今まで閉ざされた世界で生きていたのが外に自由に出て行けるという喜びを、そのとき感じました。」、「社会復帰できない人も『労務外出』という形で外に働きに出るようになった。」、「予防法は事実上空洞化している――そういう意見が主流でした。」、「昔のように強制的に収容したり、患者が外出するのを強権で罰したりすることはなくなった。」などの文章を挙げる。

 以上からは、特に昭和五〇年代以降、療養所が外出に対する積極的な規制を行わなくなり、これに伴い少なからぬ入所者がかつてに比べて外出が自由になったと実感していたことがうかがわれるが、外出の制限が全くないと感じていたかどうかは定かではない。入所者らが新法の「死文化」とか「空洞化」というのも、新法六条に定める強制措置、同法一五条、二八条に定める無断外出に対する療養所の積極的な規制や罰則の適用がなくなったことなどを指しているにすぎないと考えられる。

 ㈡ 昭和五〇年代以降に療養所で勤務した医師らの証言等

  ⑴ 長尾は、意見書において、「私の時代には、外出は全く自由であり、外出の制限事例など聞いたことはない。菌検査はしていたが、その結果が陽性かどうかにより外出させるかどうかを判断するというようなこともなかった。外出許可証というものがあり、これを取得して外出していた者もいるが、これは主にバスレクなどの公式行事の場合に用いる形式的なものであり、入所者が園外で何らかのトラブルに巻き込まれた際に園が対応できるように、入所者の所在をつかんでおく必要から発行されたものである」と述べ、証人尋問でも同旨の証言をしている。

  ⑵ 今泉は、陳述書において、「私の経験する限りでは外出は自由である。」、「(外出許可) 申請を拒否した経験はない。」、「無許可での外出に刑罰を科し得る条文があることも念頭になく、懲戒など考えたこともなかった。」と述べ、証人尋問でも同旨の証言をしている。

  ⑶ 後藤は、陳述書において、「昭和五八年当時は自家用車を持っている入園者も多数いて、自由に外出していた。」「園のほうで外出を取り締まるというようなことはなく、園が本来罰するべき無断外出を黙認しているというような状況ではなかった。私自身としては、入園者の話を聞いたりその生活を見たりしていて、入園者が、びくびくしながら外出をしていたとは思わない。」、「菌が陰性であるかどうかは外出許可の基準にはなっておらず、菌が陽性であっても『感染のおそれがほとんどない』に〇をつけて、許可証を出していた」と述べ、東京地裁における証人尋問でも同旨の証言をしている。

  ⑷ 瀧澤は、陳述書において、「私には施設管理者として外出を取り締まるという発想は全くなく (中略)ママ仮に許可を得ないで外出した場合でも、刑罰を科せられるような状況ではなかったし、入所者の意識としても、無断で外出すれば刑罰を科せられるかもしれないことを恐れながら外出していたという状況にはなかったと思う」と述べ、東京地裁における証人尋問でも同旨