コンテンツにスキップ

Page:GovernmentCompensation-Trial Judgement-HanreiJihō.djvu/31

提供:Wikisource
このページは校正済みです

 療養所における外来治療は、昭和四〇年代から少しずつではあるが、行われていた。

 別紙七は、沖縄愛楽園及び宮古南静園の二園を除く療養所における外来治療患者数と新規入所者数を対比したものであるが、これによれば、昭和四〇年度から昭和四九年度までは、外来治療だけの患者が六八人であったのに対し、新規入所者が五八八人と圧倒的に多いが、昭和五〇年度から昭和五九年度までは、外来治療だけの患者が一一九人で、新規入所者が一五三人となり、昭和六〇年度から平成八年度までは、外来治療だけの患者が三八人で、新規入所者が六八人となっている。

 このように、医学的には在宅治療が可能な症例がほとんどであったろうと思われる昭和五〇年代以降に少なからぬ新規入所者が生じているのは、多くの療養所が交通の便の極めて悪いへき地にあったことが大いに影響していると考えられる。

 九 新法廃止までの経過

 全患協は、昭和三八年以降も新法改正を運動方針の中に掲げ続けていたが、運動の重点は、次第に処遇改善に移っていった。特に、昭和四八年以降、入所者に対する処遇改善が進み、外出制限等も運用上厳格でなくなってくると、新法改正が実現しても現在採られている福祉的措置が後退するのではないかとの懸念から、全患協の中でも、新法改正に消極的な考えが現れるようになっていた。

 大谷は、厚生省医務局国立療養所課長となった昭和四七年当時から、新法が国際的にみてその学問的根拠を失っていることは明らかであると考えていた。しかし、大谷は、昭和四九年ころ、当時の全患協の事務局長であった丙川松夫から、「先生が法律改正をやるといわれるのなら、全患協は全面的に協力して闘う。」旨持ち掛けられた際、新法改正の動きが療養所での入所者の処遇の後退につながることを危惧し、迷った末に、新法の改廃を訴えるよりも事実上の部分的開放化と処遇改善を図る方が実利が大きいと考えて、新法改正に賛同しなかった。この決断について、大谷は、後にその著書の中で、事実上の開放化や処遇改善が「それなりの成果は挙げ得たと思う。」としつつも、「患者さんに対する国の強圧的隔離政策の基本政策は変わることがなかった。私が出来たことといえばせいぜい微温的な政策の改善にとどまって」いたとし、さらに「ハンセン病差別の基本である予防法改正問題に身を挺して取り組むべきであったと悔やまれた。」、「実体を改善していけばそれで前進になるのではないかと考えて努力し、自らを慰めてきたのは、やはり姑息的で小役人的モノの考え方にとらわれていたとしか言いようがなかったと今でも悔やまれる。」と振り返り、証人尋問でも同旨の証言をしている。

 その後、昭和六二年三月に所長連盟の新法改正要請書が、また、平成三年四月に全患協の新法改正要請書がそれぞれ厚生大臣に提出されたが、大きな反響を呼ぶには至らなかった。

 しかし、平成六年に大谷見解が発表されてから事態は一変した。大谷見解は、新法を廃止し、在園者に対しては今までどおりの処遇を保障するというものであり、全患協ニュースにも掲載された。

 これに対して、全患協を始め入所者らは当初とまどいを見せた。しかし、全患協は、平成七年一月、九項目の要求が充たされることを条件に大谷見解を指示ママすることを明らかにした。その後の新法廃止に至る経過の概略は、第二章第二の二6㈡のとおりである。

第四 ハンセン病患者等に対する社会的差別・偏見について

 一 旧来からの差別・偏見について

 我が国において、ハンセン病が、明治時代以前から、差別・偏見・迫害の対象とされてきたことは、前記第二節第一の一で述べたとおりであり、このことは、程度の差こそあれ、ハンセン病の存在する国々に共通するところである。

 しかしながら、伝染説が確立されるまで、我が国では、ハンセン病を遺伝病であると信じている者が多く、ハンセン病が伝染する病気であるとの認識はなかったか、あったとしても極めて希薄であったことから、伝染に対する恐怖心からくる偏見はほとんどなかった。そのような時代における差別・偏見の根源は、ハンセン病患者を穢れた者、劣った者、遺伝的疾患を持つ者と見る考えからのものであった。

 我が国で、医学的知見として伝染説が確立され、伝染説に依拠する「癩予防ニ関スル件」が制定された後も、社会一般には、ハンセン病が伝染病であるとの認識はすぐには広がらず、なお遺伝病であると信じている者も多かったのであり、また、実際にもハンセン病が次々と伝染するような状況ではなかったことから、社会一般の伝染に対する恐怖心はそれほど強いものではなかった。

 二 無らい県運動以降の戦前の差別・偏見について

 ところが、このような状況は、昭和四年ころから終戦にかけて全国各地で大々的に行われた無らい県運動による強制収容の徹底・強化により、大きく変わった。無らい県運動により、山間へき地の患者までもしらみつぶしに探索しての強制収容が繰り返され、また、これに伴い、患者の自宅等が予防着を着用した保健所職員により徹底的に消毒されるなどしたことが、ハンセン病が強烈な伝染力を持つ恐ろしい病気であるとの恐怖心をあおり、ハンセン病患者が地域社会に脅威をもたらす危険な存在でありことごとく隔離しなければならないという新たな偏見を多くの国民に植え付け、これがハンセン病患者及びその家族に対する差別を助長した。このような無らい県運動等のハンセン病政策によって生み出された差別・偏見は、それ以前にあったものとは明らかに性格を異にするもので、ここに、今日まで続くハンセン病患者に対する差別・偏見の原点があるといっても過言ではない。

 三 戦後の差別・偏見について

 1 厚生省は、昭和二五年ころ、すべてのハンセン病患者を入所させる方針を打ち立て、これに基づき、全患者の収容を前提とした増床を行い、患者を次々と入所させていった (前記第二の四参照)。これにより、患者総数のうちの入所患者の割合は、昭和二五年には約七五パーセントだった が、昭和三〇年には約九一パーセントになった (別紙五参照)。このような患者の徹底した収容やこれに伴う患者の自宅の消毒「ライ患者用」などと明記された列車を仕立てての患者の輸送等は、ハンセン病が強烈な伝染力を持つ恐ろしい病気であり患者は隔離されなければならないとの偏見を更に作出・助長した。

 2 昭和二八年に制定された新法には、即時強制を含む伝染させるおそれがある患者の入所措置 (六条)、外出制限 (一五条、二八条)、従業禁止 (七条〉、汚染場所の消毒、物件の消毒・廃棄・移動の制限 (八条、九条、一八条)等の規定がある反面、退所の規定がないが、このような新法の存在は、ハンセン病に対する差別・偏見の作出・助長・維持に大きな役割を果たした。このような法律が存在する以上、人々が、ハンセン病を強烈な伝染病であると誤解し、ハンセン病患者と接触を持ちたくないと考えるのは、無理からぬところであり、法律が存在し続けたことの意味は重大である。この点について、厚生大臣は、平成八年の廃止法の提案理由の説明の中で、「旧来の疾病像を反映したらい予防法が現に存在し続けたことが、結果としてハンセン病患者、その家族の方々の尊厳を傷付け、多くの苦しみを与えてきたこと」等について、「誡に遺憾とするところであり、行政としても陳謝の念と深い反省の意を表する」と述べており、衆参両厚生委員会も、廃止法の審議の際の附帯決議において、「『らい予防法』の見直しが遅れ、放置されてきたこと等により、長年にわたりハンセン病患者・家族の方々の尊厳を傷つけ、多くの痛みと苦しみを与えてきたことについて、本案の議決に際し、深く遺憾の意を表するところである。」としているのである。

 3 瀬戸内海の孤島等のへき地に置かれた療養所の存在も、新法の存在とあいまって、人々にハンセン病が恐ろしい特別な伝染病であることを強く印象付け、差別・偏見の作出・助長・維持に大きな役割を果たした。療養所の近隣の住民その他療養所の存在を知る者が、療養所をハンセン病患者が法律によって隔離されている場所と考え、その療養所の入所者が恐ろしい伝染病の危険な伝染源であるとの偏見を抱くのは、療養所を隔離施設と位置付ける新法の存在からすれば、極めて自然な成り行きである。ハンセン病患者を見たこともなく、ハンセン病のことを全く知らなかった者が、療養所の存在を知ったとき、そこにどのような偏見が生まれるのかを考えれば、新法によって隔離施設として位置付けられている療養所の存在が偏見を生み出す契機となったことの重大性は明らかである。

 4 外出制限規定が徐々に弾力的に運用されるようになり、昭和五〇年代以降はこれによる実際上の制約が著しく減退するなど、療養所の運営は、人権を制約しない方向で改善がされていったが、このことは、ほとんど公にはされず、社会一般のハンセン病に対する認識を大きく変えるものではなかった。厚生省が、隔離の必要性がなくなった昭和三五年以降においては、すべてのハンセン病患者及び入所者が隔離されるべき危険な存在ではないことを積極的に明らかにすべきであったことは後述するが、厚生省は、このような表明をせず、かえって、昭和五七年の国会答弁でも見られるように (前記第三の四3㈡)、隔離政策を掲げ続け、これを療養所の予算獲得のためにも利用した (前記第二節第三の七)。このことは、入所者の処遇改善に役立ったという点で評価すべきことはもちろんあるが、同時に、ハンセン病患者及び元患者に対する根強い差別・偏見を助長し、維持することにもつながった。

 5 昭和四五年以降、新発見患者数が年間数十名程度に激減し (別紙五参照)、しかも、スルフォン剤の登場以降、ハンセン病が治し得る病気になり、かつてのような悲惨な病状の患者がほとんどいなくなっていたのであるから、ハンセン病に対する過度の恐怖心からくる偏見・差別は、自然に任せれば、人々に忘れ去られ、なくなってしかるべきものであった。そして、実際にも、人々は、ハンセン病患者や入所者、元入所者と関係する機会がない限り、ハンセン病患者が危険な伝染源であるとの偏見をもともと抱かないか、あるいは、時の経過とともにそのような偏見が薄れていったであろう。しかし、ハンセン病患者や入所者、元入所者と関係しないところで、いかに偏見が薄れていったところで、これらの者にとっては、何の意味もないのであって、問題は、これらの者が、社会と接する場面において、いかに認識され、扱われていたかということにある。そして、そのような場面においては、なお、厳然として、ハンセン病に対する過度の恐怖心からくる根強い差別・偏見が残ってきたといわざるを得ない。そして、その原因のすべてが新法の存在や厚生省の政策の在り方にあるとまではいえないとしても、重要な役割を果たしたことは否定し難いところである。

 四 後遺症と園名について

 1 後遺症と差別・偏見

 ハンセン病の後遺症は、単に機能障害をもたらし得るだけでなく、ハンセン病患者として差別・偏見を受ける契機となることが多い。これは、機能障害がないか、さほど重大でないちょっとした顔面の変形や手足の曲がりであっても、同様である。

 特に、退所者は、目に見える後遺症があれば、入所歴があることを完全に隠し通すことは困難であり、激しい差別・偏見にさらされることにつながる。

 また、在園者にとっては、これがただでさえ困難な社会復帰の大きな障害となってきたのである。暫定退所決定準則が希望事項として「顔面、四肢等に著しい畸形、症状を残さないこと」を掲げているが (前記