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法中 (ロ) 及び (ニ) に適合すること

  (ヘ) 光田氏反応 六×六ミリメートル以上であること

  ⑶ その他 (希望事項)

  (イ) 顔面、四肢等に著しい畸形、症状を残さないこと

  (ロ) 退所後家族又は隣人との不調和のおそれがないこと

 ㈡ 暫定退所決定準則の位置付け及び周知性

 この文書の位置付けは、必ずしも明らかでない。大谷は、その著書の中で「この文書が本当に公式文書であったかどうかについて、そうでなかったと解釈している人もあり、存在を知らなかったという人もあり、未だにその間の経緯は謎めいている。」と記述している。また、例えば、宮古南静園長や沖縄愛生園長を歴任している長尾は、この文書の存在を知らなかったと証言している。

 当初療養所長以外に厳秘とされたこの準則は、間もなく全患協の知るところとなった。しかしながら、この準則の退所基準が入所者らに広く周知されたと認めるに足りる証拠はない。被告は、右準則が入所者に周知されていたことの根拠として全患協ニュース(昭和三三年一二月一五日発行。)の記事を挙げるが、これにも右準則の存在・内容についての記載はない (後記3(二)参照)。

 ㈢ 暫定退所決定準則の評価

 この準則の退所基準は、長期間の経過観察や頻回の菌検査を要求する極めて厳しいものである。大谷は、その著書の中で「厳格きわまりないもの」と評しており、証人尋問でも同旨の証言をしている。また、昭和二四年以降星塚敬愛園や松丘保養園で勤務し、昭和五三年以降は同園長であった荒川は、意見書において、「この基準は基準通りに適用すれば、到底基準を満たして退所することなど困難な厳しい規定で」あり、「患者の退所は、基準の適用によってではなく、いわば勝手に出ていったまでのことであり、これを退所基準によって積極的に退所させたかのように言うのはおかし」いと述べている。さらに、瀧澤英夫 (奄美和光園名誉園長。以下「瀧澤」という。) も、陳述書において、右基準が厳しいものだったと述べている。しかも、注意すべきは、この準則が、退所の必要最小限の要件を定めたものにすぎず、各療養所においてより厳しい要件を設けることを妨げないとし、積極的に患者の退所を行わせる意図がないとまで付け加えていることである。

 厚生省が退所基準について厳しい態度を取ったのは、新法六条の「伝染させるおそれがある患者」を極めて広く解釈し (前記第二の10参照)、これに該当するすべてのハンセン病患者を隔離の対象とする厚生省の見解からすれば、当然のことともいえる。もちろん、厚生省は、少なくとも昭和三一年の時点においては、「伝染させるおそれがある患者」を退所の対象とは考えていなかったのであり、その後も、新たな退所基準を定めたことはなく、ましてや、「伝染させるおそれがある患者」に退所を認めると公式に表明したことは、一度もなかった。

 3 昭和三〇年代、昭和四〇年代の退所許可の実情

 ㈠ 昭和三〇年代、昭和四〇年代に暫定退所決定準則にとらわれないで退所を許可することもなかったわけではないであろうが、退所基準が昭和三〇年代あるいは昭和四〇年代に一気に緩和されたことを認めるに足りる証拠はない。むしろ、スルフォン剤単剤治療を受けたL型患者の再発が目立つようになったことなどから、治癒の判定や退所基準が慎重になる傾向もないではなかった。

 厚生省公衆衛生局結核予防課が昭和三九年三月にまとめた「らいの現状に対する考え方」には、暫定退所決定準則の改正案を検討中である旨記載されており、厚生省においても退所基準を見直す必要があると認識していたことがうかがわれるが、結局、厚生省が新たな退所基準を示すことはなかった。

 ㈡ 療養所の中には独自の退所基準あるいは退所手続規定を定めていたところもある。

 例えば、菊池恵楓園では、昭和三三年一一月、療養所と自治会との協議により、「治癒軽快退園希望者取扱い規定」が定められており、このことは同年一二月一五日発行の全患協ニュースにも掲載されている。この右全患協ニュースには、一か月ないし二か月に一ないし二回の菌検査を四ないし五回実施すること、必要箇所の病理組織検査を行うこと等が記載されているが、最終的な退所許否の判断は療養所長にゆだねられていたようであり、ここには具体的な退所基準は記されていない。

 また、長島愛生園でも、同年一〇月に軽快退所基準が明らかにされ、眧和三四年三月二四日にこの基準による最初の退所者を出した。しかしながら、同年八月一日発行の「愛生」によれば、右基準は次のとおりであり、厳格さにおいては暫定退所決定準則とほとんど変わらないものであった。

  ① 病状固定を判定する期間

 結節型    少くとも二年間

 神経斑紋型  少くとも一年間

  ② 癩性皮疹、結節、浸潤が吸収、消褪して後一年以上その部の知覚麻痺が拡がらないこと

  ③ 大耳神経、尺骨神経及びその他の神経の肥厚していないこと

  ④ 皮膚の塗抹標本に於て左の如く連続ことごとく菌陰性であること

 結節型    二力月おきになるべく多くの箇所より採り、連続一〇回以上ことごとく陰性であること

 神経斑紋型  二ヵ月に一回なるべく多くの箇所より採り、ことごとく陰性であること

  ⑤ 前項の検査で菌陰性であった場合、病巣部の皮膚一ヵ所以上から切片標本を作り菌陰性であること

  ⑥ 光田氏反応 (一五日目) が結節型の場合、七ミリ以上、神経斑紋型が一〇ミリ以上であること

 なお、被告は、星塚敬愛園入園者機関誌である「始良野」(昭和三一年一〇月号。)に当時の星塚敬愛園長の「癩の伝染しない人達は勇気をもって社会復帰すべきである」との発言が掲載されたことを指摘するが、伝染させるおそれがない者に退所が許されるのは当然のことであり、どのような場合に「伝染させるおそれ」がないと判断されるのかが重要なのである。

 4 昭和五〇年代以降の退所許可の実情

 昭和四〇年代後半にリファンピシンが数日の服用でらい菌の感染力を失わせることが明らかになり、「伝染させるおそれ」を理由に患者を隔離することはおよそ無意味となった。このような医学の進歩は、昭和五〇年代以降の退所許可の判断にも影響を与えたものと思われる。

 昭和五〇年四月に大島青松園に赴任した長尾は、意見書において、当時既に大島青松園で伝染させるおそれを理由に退所を妨げるようなことはなく、菌検査が陽性である患者や再発の懸念がある場合などに、治療上、療養上の観点から医師として入院の継続が望ましいとアドバイスする程度であったと述べ、証人尋問でも同旨の証言をしている。

 昭和五六年に大島青松園に赴任した今泉正臣 (星塚敬愛園長。以下「今泉」という。) は、陳述書において、退所が自由であると考えてきたと述べている。

 昭和五八年から平成一ニ年まで星塚敬愛園で勤務した後藤正道 (鹿児島大学医学部助教授。以下「後藤」という。) は、陳述書において、入所者の病状から入院治療の必要がある場合には療養所にとどまるよう説得することはあったが、入所者が退所を希望する限り自由に退所させていたと述べ、東京地裁の証人尋問でも同旨の証言をしている。

 昭和五二年四月以降栗生楽泉園副園長、奄美和光園副園長、同園長を歴任した瀧澤は、陳述書において、栗生楽泉園でも奄美和光園でも、軽快退所を希望する者に積極的に勧めはしたが、これを制限したことはなく、退所後の生活を慮って退所を思いとどまるよう助言したことはあるが、退所するかどうかの最終判断は入所者本人の意思を尊重していたと述べ、東京地裁の証人尋問では、活動性区分を基準に軽快退所を認めていたが、これに当てはまらなくても入所者が希望すれば自己退所を認めていた旨の証言をしている。

 このように、昭和五〇年代以降、多くの療養所において、退所を強く希望する入所者に対し是が非でも退所を許可しないということはなくなった。しかしながら、このような療養所の方針が公式に表明されたことを認めるに足りる証拠はなく、入所者にだれもが自由に退所できることが周知されていたと認めるに足りる証拠もない。長尾も、証人尋問において、「私自身がみんなに退所できるんだよというような意味のアナウンスはしたことはございません。(中略)ママもう治ったよとか、退所できるんだよということを今までは言わなかったんじゃないかということを書いております。その意味で、やっぱり知らなかったという方がときどきおられました。」と証言している。また、長尾は、平成八年九月一日発行の「すむいで」において、「(「癩予防ニ関スル件」が制定された明治四〇年以来) 九〇年間、患者さんは、病気の真実とは掛け離れて扱われ、国民としての多くの権利を剝奪され、義務として療養所に隔離をされ続けてきました。」、「予防法が廃止されて 『入園者が自由になり、自らの権利として住む場所を選べる』と言っても、この愛楽園での生活を選ぶことは、ほとんどの人々にとって、苦汁を飲む選択,やむを得ぬ選択であります。」と記述している。かえって、後記四3の昭和五七年の国会答弁でも見られるように、厚生省は、昭和五〇年代以降も、ハンセン病患者に対する人権制限の必要性を公式には否定していない。

 ところで、昭和五〇年代以降、軽快退所者数については、逆に減少の傾向が見られる。その要因としては、入所による生活基盤の喪失のほか、入所期間の長期化、入所者の高齢化、社会に根強く残る差別・偏見の存在、社会復帰支援事業の不十分さが挙げられる。また、社会的差別・偏見とも関係するが、後遺症の存在が退所を妨げる要因となっている場合が多い (後記第四の四1参照)。入所者の中には、退所を積極的には希望しない者も現れてくるが、これも退所をめぐる厳しい現実の現れといえる。

 5 社会復帰支援事業について

 多くの入所者は、療養所への入所により、家族とのつながりが断ち切られたり、職を失ったり、学業を中断せざるを得なくなるなど、社会での生活基盤を著しく損なわれており、ハンセン病に対する社会的差別・偏見が根強く存在する状況にあって、何の公的援助も受けずに療養所を出て社会復帰を果たすことは極めて困難であった。入所期間の長期化、入所者の高齢化、後遺症による身体障害等の要因が加われば、その困難さは一層増した。

 ところで、新法附帯決議の第七項は、「退所者に対する更生福祉制度を確立し、更生資金支給の途を講ずること」としている。そしてその趣旨に沿うものとして昭和三三年に軽快退所者世帯更生資金貸付事業が、昭和三九年にらい回復者に対する就労助成金制度が、昭和四七年に沖縄における技能指導事業が、昭和五〇年に相談事業がそれぞれ創設された。しかしながら、例えば、軽快退所者世帯更生資金貸付事業による貸付限度額は、生業資金五万円、支度資金一万五〇〇〇円、技能修得資金月額一五〇〇円 (六か月間) であり、昭和三五年度の実績でも、一四件計四〇万円 (うち生業資金三七万円、支度資金三万円) の貸付けが行われたにすぎない。また、らい回復者に対する就労助成金制度についても、その支給額は、生業資金が三万円以内、支度資金が一万五〇〇〇円以内にすぎない。なお、昭和四八年度予算では、退所患者支度給与金が総額で九四万五〇〇〇円、退所患者旅費が総額で三一万一〇〇〇円であっ