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 昭和二〇年一二月 駿河療養所 (静岡県御殿場市所在)

 一〇 無らい県運動

 無らい県運動は、昭和四年における愛知県の民間運動が発端になり、その後、岡山 県、山口県などでも始まった。しかしながら、日中戦争が始まった昭和一一年ころから、この運動の様相が変化し、全国的に強制収容が徹底・強化されるようになった。昭和一五年には、厚生省から都道府県に次の指示が出された。すなわち、「らいの予防は、少なくとも隔離によりて達成し得るものなる以上、患者の収容こそ最大の急務にして、これがためには上述の如く収容、病床の拡充を図るとともに、患者の収容を励行せざるべからず。しかして患者収容の完全を期せんがためには、いわゆる無らい県運動の徹底を必要なりと認む。(中略)ママこれが実施に当たりては、ただに政府より各都道府県に対し一層の督励を加うるを必要とするのみならず、あまねく国民に対し、あらゆる機会に種々の手段を通じてらい予防思想の普及を行ない、本事業の意義を理解協力せしむるとともに、患者に対しても一層その趣旨の徹底を期せざるべからず。」と指示されたのである。

 こうして、戦時体制の下、全国津々浦々で、無らい県運動により、山間へき地の患者をもしらみつぶしに探索するなどの徹底的な強制収容が行われ、これまで手が付けられていなかったハンセン病患者の集落もその対象となった。例えば、昭和一五年七月には、多くのハンセン病患者によって形成されていた熊本県のいわゆる本妙寺部落で強制収容が行われ、一五七名が検挙された。

 このような無らい県運動の徹底的な実施は、多くの国民に対し、ハンセン病が恐ろしい伝染病でありハンセン病患者が地域社会に脅威をもたらす危険な存在であるとの認識を強く根付かせた。

第二 戦後、新法制定までの状況について

 一 栗生楽泉園特別病室事件の発覚

 戦後間もなく、戦時体制下における療養所内での過酷な人権侵害の実態が明らかになったのが栗生楽泉園特別病室事件である。

 この特別病室は、昭和一四年に設置された重監獄で、厳重な施錠がなされ、光も十分に差さず、冬期には気温がマイナス一七度にまで下がるという極めて過酷な環境であり、全国の療養所で不良患者とみなされた入室者の監禁施設として利用された。特別病室に監禁された九二人の監禁期間は、平均約四〇日で、施行規則で定められた二か月の期間 (前記第一の三参照) を超えて監禁されていた者も多く、監禁期間は最長で一年半にも及んでいた。被監禁者は、右のような厳寒の環境において、十分な寝具や食料も与えられず、九二人のうち一四人が監禁中又は出室当日に死亡しており、監禁と死亡との間に密接な関係があると厚生省が認めた者は計一六人に上る。監禁された理由については、書類不備のため明らかでないものが多いが、他の被懲戒者と連座的に監禁された者もいるなど、懲戒検束規定の運用が極めて恣意的に行われていたことがうかがわれる。

 この特別病室事件は、昭和二二年八月に大きく報道され、厚生省や国会による調査団が現地に派遣された。そして、同年一一月六日の衆議院厚生委員会において、厚生大臣及び東龍太郎医務局長 (以下「東局長」という。) がこの問題についての答弁をし、右実態が明らかになったのである。

 なお、東局長は、同日の厚生委員会において、「最近におきましては、癩治療ということに対して、非常に大きな光明を見出しつつありますから、治療を目的とするところの全癩患者の収容ということを、一つの国策としてでも取上げていくようにいたしたい」と述べており、厚生省において既にプロミン治療効果を認識していたことがうかがわれる。

 二 優生保護法の制定

 昭和一五年に制定された国民優生法は戦後間もなく廃止され、これに代わるものとして、昭和二三年に、らい条項を含む優生保護法が制定された。

 戦前の国民優生法にらい条項は設けられず、ハンセン病患者に対する優生手術や人工妊娠中絶を認める旧法改正案も、様々な議論を経て結局可決されなかったが、この優生保護法の審議過程においてらい条項が特に問題視された形跡はない。

 なお、昭和二四年から平成八年までに行われたハンセン病を理由とする優生手術は一四〇〇件以上、人工妊娠中絶の数は三〇〇〇件以上に上る (別紙三参照)。

 三 プロミンの予算化

 我が国においても、昭和二二年以降プロミンの有効性が明らかになっていったが、このことは、国会審議でも取り上げられ、東局長は、昭和二三年一一月二七日の衆議院厚生委員会において次のとおり答弁している。すなわち、「幸いにこの患者が一日千秋の思いでおりますプロミンの製剤は、国内において生産がされるように相なりましたし、またプロミンよりも一歩進みましたプロミゾールも、最近はその生産ができそのサンプルを数日前私どももいたたいております。(中略)ママもし十分な予算を獲得することを得ましたならば、癩患者の全部に対して、この進んだ治療薬による治療を与えることもできる。その日の遠からざることを私は信じておるのでありまして、癩というものは、普通の社会から締め出して、いわゆる隔離をして、結局その隔離をしたままで、癩療養所に一生を送らせるのだというふうな考えではなく、癩療養所は治療をするところである、癩療養所に入って治療を受けて、再び世の中に活動し得る人が、その中に何人か、あるいは何百人かあり得るというようなことを目標としたような、癩に対する根本対策――癩のいわゆる根絶策といいますか、全部死に絶えるのを待つ五〇年対策というのではなく、これを治癒するということを目標としておる癩対策を立てるべきじゃないかと私ども考えております。」と述べているのである。

 また、プロミンの登場は、患者に大きな希望を与えたが、当初、プロミンを広く普及させるだけの予算措置が採られていなかった。これに対し、まず、昭和二三年に多磨全生園でプロミン獲得促進委員会が結成され、これを中心にプロミン獲得運動が全国に波及し、ハンスト等も行われた。その結果、昭和二四年度予算で、患者らのほぼ要求どおりのプロミンの予算化が実現した。

 四 戦後の第二次増床計画と患者収容の強化

 厚生省は、昭和二五年八月に全国らい調査を実施した。これによると、登録患者が一万二六二八人、このうち入所患者が一万〇一〇〇人、未収容患者が二五二六人であり、未登録患者を合わせた患者数は一万五〇〇〇人と推定された。五〇年前の明治三三年の調査で患者総数が三万〇三五九人 (なお、把握漏れも相当あると思われる。) とされたのと比較すると、ハンセン病の患者数が五〇年間で半減あるいはそれ以下に減少したことになる。また、有病率は、人口一万人当たり六・九二人 (明治三三年) から一・三三人 (昭和二五年) と約五分の一になった。

 厚生省は、昭和二五年ころ、すべてのハンセン病患者を入所させる方針を打ち立て、これに基づき、全患者の収容を前提とした増床を行い、患者を次々と入所させていった (後記六の三園長発言のほか、昭和二四年六月の全国所長会議のメモである甲二一〇。なお、右メモについては、《証拠略》ママにおける成田の証言参照)。昭和二四年五月一九日付けの新聞記事によれば、「厚生省は、三〇年計画で日本からライ病を根絶するためその潜在患者を発見すべく全国的にライの一せい検診に乗出した。」、「全国六八九の保健所を動員して潜在患者の発見に努めるわけだが厚生省ではこれと併行して今年度中に国立療養所の病床を二〇〇〇増床して、とりあえず発見患者を入所保養させ、さらに明年度は二六〇〇床を増床する一方近く癩予防法を改正して三〇年計画でライを絶滅させる」、「各市町村の衛生官と警官が協力してライ容疑者名簿を作る」、「結核や乳幼児の集団検診の際保健所係員が現場へ出張して容疑者を発見する一方、保健所では一般住民からの聞込みや投書で容疑者発見につとめる」とされている。

 増床の状況は、別紙四のとおりであり、昭和二四年度から昭和二八年度までに五五〇〇床の増床が実現し、療養所の収容定員が一万三五〇〇人となった。そして、昭和二八年の調査で、未登録患者を含む推定患者数が約一万三八〇〇人とされたので、この時点でほぼ全患者の収容が可能になり、増床が終了した。

 また、昭和二六年度から昭和三〇年度までの新入所者は、次のとおりであり、療養所の増床に合わせて患者収容の強化が図られ、在宅患者が二七六九人 (昭和二五年一二月末) から 一二二人(昭和三〇年一二月末) に減少した。

 昭和二六年度 一一五六人

 昭和二七年度 六五四人

 昭和二八年度 五六三人

 昭和二九年度 五六六人

 昭和三〇年度 六〇八人

 なお、明治三三年から平成六年までの患者数、在所患者数、有病率、新発見患者等の推移は、別紙五のとおりである。

 五 栗生楽泉園殺人事件とその影響

 昭和二五年一月一六日、栗生楽泉園で入所者同士の反目から三人の入所者が殺害されるという事件が発生した。

 このことは、同年二月一五日の衆議院厚生委員会で取り上げられ、光田 (当時長島愛生園長) らが患者の取締りの強化を訴えた。

 また、同年三月一七日の衆議院厚生委員会では、同月七日から同月一〇日まで栗生楽泉園の実地調査を行った丸山直友委員が、楽泉園殺人事件のような不祥事が起こらないようにするためには、園の周囲に柵をめぐらせ患者が自由に外出できないようにすること、現行の懲戒検束規定が憲法違反でないとの明確な解釈を加えることなどが必要である旨述べた。これに対し、佐藤藤佐刑政長官は、「癩患者の特殊性にかんがみまして、療養所の中で脱走を防ぐため、あるいは園内の秩序を維持するために、ある程度の懲戒処分をしなければならぬという必要は、当然認められるのでありまして、癩予防法の法律の委任を受けて、現在は癩予防法施行規則というものを省令で規定されておりますが、この法令の根拠がありますれば、必要なる限度において懲戒処分を行うことは適法である。」として、新憲法下でも旧法の懲戒検束規定に基づき懲戒処分を行うことができる旨の答弁をした。

 六 三園長発言

 1 三園長発言の内容

 参議院では、新たなハンセン病政策を検討するため、厚生委員会に「らい小委員会」が設けられたが、昭和二六年一一月八日、同委員会において、林芳信多磨全生園長 (以下「林」という。)、光田長島愛生園長、宮崎松記菊池恵楓園長 (以下「宫崎」という。) を含む五人の参考人からの意見聴取が行われた。ここでの三園長の発言が、いわゆる三園長発言 (三園長証言) であり、その内容は以下のとおりである。

 まず、林は、患者の収容強化について、「まだ約六千名の患者が療養所以外に未収容のまま散在しておるように思われます。でありますから、これらの患者は周囲に伝染の危険を及ぼしておるのでございますので、速やかにこういう未収容の患者を療養所に収容するように、療養施設を拡張して行かねばならんと、かように考えるのであります。」、「癩予防は現在のところ伝染源であるところの患者を療養所に収容するということが先ず先決問題でございますが (中略)ママ、時勢に適合するように改正されることが妥当であろうと考えます。」と述べている。一方、治療については、「現在相当有効な薬ができまして、各療養所とも盛んにこれを使用して (中略)ママ治療の効果も相当に上りまして、各療養所におきまし