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れていなかったが、伝染説が確立された第一回国際らい会議 (明治三〇年) 以降、ハンセン病予防に対する関心が高まり、明治四〇年に「癩予防ニ関スル件」が制定された。

 この「癩予防ニ関スル件」では、財政上の理由もあって、療養の途がなく救護者のない者のみが隔離の対象とされ、公衆衛生の点からは徹底を欠き、むしろ、ハンセン病が文明国として不名誉であり恥辱であるとする国辱論の影響を強く受けたものともいえるが、同時に、浮浪患者の救済法としての色彩を持つものでもあった。

 二 療養所の設置

 内務省は、「癩予防ニ関スル件」を制定した明治四〇年、まず二〇〇〇人の浮浪患者を収容する方針を決め、「癩予防ニ関スル件」四条一項所定の療養所の設置方針として、市街地への距離が遠くなく交通の便利な土地を選ぶことなどを決めた。

 しかしながら、実際の療養所建設は地元住民の反対運動で難航し、結局、次のとおり、全国五か所に府県連合立療養所 (以下「公立療養所」という。) が設置されたが、これらは必ずしも右方針どおりの立地条件ではなく、特に、大島療養所は、瀬戸内海の孤島に置かれた。

 第一区 全生病院 (東京都東村山市所在。後の多磨全生園)

 第二区 北部保養院 (青森市所在。後の松丘保養園)

 第三区 外島保養院 (大阪市所在。なお、昭和九年九月の室戸台風により壊滅的被害を受け、そのまま復興されなかった。)

 第四区 大島療養所 (香川県木田郡庵治町所在。後の大島青松園)

 第五区 九州療養所 (熊本県菊池郡合志町所在。後の菊池恵楓園)

 なお、大正四年ころ以降、療養所長から、入所患者の逃走防止等のために離島に療養所を設置すべきであるとの意見が度々出された。また、沖縄県の西表島に大療養所を建設するという構想もあったが、これは、地元住民の反対にあって実現しなかった。さらに、昭和一〇年三月一四日、衆議院で、療養所は外部との交通が容易でない離島又は隔絶地を選定して設置すべきであるという建議案が提出され、可決された。

 三 懲戒検束権の付与

 設置当初の療養所内では、風紀が乱れ、秩序維持が困難な状況にあった。そこで、大正三年に全生病院長であった光田が所内の秩序維持のための意見書を提出したことなどをきっかけとして、大正五年法律第二一号による「癩予防ニ関スル件」の一部改正により、「療養所ノ長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ被救護者ニ対シ必要ナル懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得」 (四条ノ二) とされ、療養所長の懲戒検束権が法文化された。

 また、これに伴い、大正五年内務省令第六号により、「癩予防ニ関スル件」の施行規則 (明治四〇年内務省令第一九号) が一部改正され、懲戒検束権について、次のとおり定められた (なお、右規則五条ノ二第一項三号は、昭和二二年五月二日に厚生省令第一四号により削除された。)。

五条ノ二 療養所ノ長ハ被救護者ニ対シ左ノ懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得

 一 譴責

 二 三〇日以内ノ謹慎

 三 七日以内常食量二分ノ一マデノ減食

 四 三〇日以内ノ監禁

 前項第一二号ノ処分ハ第二号又ハ第四号ノ処分ト併科スルコトヲ得。第一項第四号ノ監禁ニ付イテハ、情況ニ依リ管理者タル地方長官又ハ代用療養所所在地地方長官ノ認可ヲ経テ其ノ期間ヲ二個月マデ延長スルコトヲ得

 五条ノ三 前条ノ外懲戒又ハ検束ニ関シ必要ナル細則ハ管理者タル地方長官又ハ代用療養所所在地地方長官ノ認可ヲ経テ療養所ノ長之ヲ定ム

 さらに、大正六年、右規則五条ノ三所定の施行細則が定められたが、右細則における懲戒検束事由の定めは極めて抽象的であり、恣意的な運用の危険をはらむものであった。例えば、風紀を乱したとか、職員の指揮命令に服従しなかったという理由で、減食等の処分の対象とされ、また、逃走し又は逃走しようとしたとか、他人を煽動して所内の安寧秩序を害し又は害そうとしたという理由で、監禁等の処分の対象とされた。

 このような懲戒検束権の法制化により、療養所長の取締りの権限が大幅に強化され、療養所の救護施設としての性格は後退して、強制収容施設としての性格が更に顕著になった。

 四 断種 (ワゼクトミー) の実施

 我が国の公立療養所では、当初、男女間の交渉を厳重に取り締まったが、それでも所内の男女交渉は絶えず、出産に至ることも少なくなかった。そのため、療養所内での出生児の養育を許さない方針であった療養所側は、その扱いに苦慮するようになった。それでも、男女間の交渉を認めることが療養所の秩序維持に役立つと考えた光田 (当時全生病院長) が、大正四年から、結婚を許す条件としてワゼクトミー (精管切除) を実施したことをきっかけとして、全国の療養所でこれが普及するようになり、昭和一四年までに一〇〇〇人以上の患者にワゼクトミーが実施され、妊娠した女性に対しては、人工妊娠中絶が実施された。

 なお、昭和二三年の優生保護法制定前に患者本人及び配偶者の同意を得ないで優生手術が行われることが少なからずあったこと並びに優生保護法制定後も同様のことが皆無ではなかったことは、昭和二四年九月一〇日付け国立癩療養所長あて国立療養所課長通知によって、十分にうかがわれる。

 なお、国民優生法 (昭和一五年法律第一〇七号) には、ハンセン病患者に対する優生手術や人工妊娠中絶の規定が設けられず、ハンセン病患者に対する優生手術や人工妊娠中絶を認める旧法の改正案も不成立に終わったことから、右のような優生手術は、昭和二三年の優生保護法制定まで、法律に明文の根拠なく行われていたものであった。

 五 第一期増床計画

 大正八年に政府が行ったらい患者一斉調查によれば、患者数が約一万六二〇〇人であり、このうち療養の資力がない患者は約一万人とされた。これに対し、療養所の収容能力は十分ではなく、収容患者数はまだ一五〇〇人にも満たなかった (別紙五参照)。

 そこで、内務省は、大正一〇年、大正一九年 (昭和五年) までの一〇年間に、初の国立療養所を新設するとともに既存の五か所の公立療養所を拡張して、病床数を五〇〇〇床とする第一期増床計画を策定した。

 右計画の実現は遅れたが、昭和一一年ころまでにはその目標を達成するに至った。

 六 入所対象の拡張等

 内務省は、大正一四年、衛生局長の地方長官あて通牒により、「癩予防ニ関スル件」三条一項の「療養ノ途ヲ有セズ」の解釈については、「なお未だいずれの患者といえども、ほとんど療養の設備を有せざるものと考うるの外なき状況にこれあり。なお救護者なる字句については、扶養義務者なると否とを問わず、常に患者を扶養するにとどまらず、療病的処遇を与うるものなることのいいと解すべく、かたがた患者の入所資格は相当広きものと解せられ」として、事実上すべての患者を入所の対象とすることとした。

 なお、内務省衛生局予防課長の高野六郎は、大正一五年五月発行の「社会事業」に掲載された「民族浄化のために」という論稿において、次のとおり記述している。すなわち、「癩病は誰しも忌む病気である。見るからに醜悪無残の疾患で、之を蛇蝎以上に嫌い且怖れる。(中略)ママこんな病気を国民から駆逐し去ることは、誰しも希ふ所に相違ない。民族の血液を浄化するために、又此の残虐な病苦から同胞を救ふために、慈善事業、救療事業の第一位に数へられなければならぬ仕事である。(中略)ママ要するに、癩予防の根本は結局癩の絶対隔離である。此の隔離を最も厳粛に実行することが予防の骨子となるべきである。」と記述しているのである。このような「民族浄化」の発想は、過酷な人権侵害を生んだその後の隔離政策に少なからぬ影響を与えたものと考えられる。

 七 旧法の制定

 昭和六年に「癩予防ニ関スル件」がほぼ全面的に改正され、「癩予防法」との題名を附された上、旧法が成立した。主な改正点は、次のとおりである。

 1 入所対象の拡張

 右改正により、療養所の入所対象に「療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノ」(「癩予防ニ関スル件」三条一項) との限定がなくなり、「癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノ」が隔離の対象とされた (旧法三条ー項)。

 2 従業禁止規定等の新設

 右改正により、行政官庁は、らい予防上必要と認めるときは、「癩患者ニ対シ業態上病毒伝播ノ虡アル職業ニ従事スルヲ禁止スルコト」ができ (旧法二条ノ二第一号)、また、「古着、古蒲団 (中略)ママ其ノ他ノ物件ニシテ病毒ニ汚染シ又は其ノ疑アルモノノ売買若ハ授受ヲ制限シ若ハ禁止シ、其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為サシメ又ハ其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為スコト」ができる (同条ノ二第二号) とされた。

 八 「癩の根絶策」

 内務省衛生局は、旧法成立前の昭和五年一〇月、「癩の根絶策」を発表した。

 これによれば、ハンセン病は「惨鼻の極」であり、「癩を根絶し得ないやうでは、未だ真の文明国の域に達したとは云へ」ず、「癩を根絶する方策は唯一つである。癩患者を悉く隔離して療養を加へればそれでよい。外に方法はない。欧州に於て、古来の癩国が病毒から浄められたのは、何れも病毒に対する恐怖から、患者の絶対的隔離を励行したからである。(中略)ママ現今も患者の隔離が唯一の手段であり、最も有効なる方法なのである。若し十分なる収容施設があつて、世上の癩患者を全部其の中に収容し、後から発生する患者をも、発生するに従つて収容隔離することが出来るなれば、十年にして廉患者は大部分なくなり、二十年を出でずして痛の絶滅を見るであらう。(中略)ママ然しかくの如き予防方法が講ぜられない場合は、癩はいつまで経っても自然に消滅することはない。過去の癩国は永久に癩国として残る。」とされ、癩根絶計画案として、二〇年根絶計画、三〇年根絶計画、五〇年根絶計画の三つを挙げている。

 これは、ハンセン病に対する恐怖心・嫌悪感をいたずらに煽り立て、国辱論も交えながら、ハンセン病患者をことごとく隔離する絶対隔離政策が唯一の正しい方策でありこれを行わなければハンセン病の恐怖からは永久に逃れられないとの強迫観念を国民に植え付けるものである。

 癩根絶計画は直ちには実施されなかったが、昭和一〇年に二〇年根絶計画の実施が決定され、昭和一一年からの一〇年間に療養所の病床数を一万床とし、さらにその後の一〇年間でハンセン病を根絶することとされた。

 九 療養所の新設

 第一期増床計画、旧法制定、二〇年根絶計画等に伴い、昭和五年三月に初の国立療養所である長島愛生園が岡山県邑久郡邑久町の瀬戸内海の小島に開設されたのを始めとして、次のとおり、国立療養所の開設が続いた。

 昭和七年一一月 栗生楽泉園 (群馬県吾妻郡草津町所在)

 昭和八年一〇月 宮古療養所 (沖縄県平良市所在。後の宮古南静園)

 昭和一〇年一〇月 星塚敬愛園 (鹿児島県鹿屋市所在)

 昭和一三年一一月 国頭愛楽園 (沖縄県名護市所在。後の沖縄愛楽園)

 昭和一四年一〇月 東北新生園 (宮城県登米郡迫町所在)

 昭和一六年七月 松丘保養園、多磨全生園、邑久光明園、大島青松園及び菊池恵楓園が国立療養所