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著な減少傾向が見られていた我が国において (後記第二節第二の四参照)、このような大流行が起こる可能性は、絶無とまではいえないとしても、公衆衛生上ほとんど無視して差し支えない程度に低いものであったというべきである。新法制定当時の国会審議においても、我が国でこのような大流行が起こる可能性があることは指摘されておらず、かえって、患者は自然に減少するなどと指摘されているのである (後記第二節第二の六1の宮崎及び参議院厚生委員長の発言部分等)。新法制定当時、我が国でナウル島のような大流行が起こるかもしれないと真剣に考えていた専門家がどれだけいたかは大いに疑問である。

 二 スルフォン剤の医学的評価について

 スルフォン剤 (プロミン、DDS等) の医学的評価については、既に、前記第三の二、三、第四の二で触れているが、ここでは、これらをまとめつつ、更に検討を加える。

 1 スルフォン剤の国際的評価 (前記第四の二参照)

 ㈠ プロミンがハンセン病に著効を示すとのファジェットの報告は、既に第二回汎アメリカらい会議 (昭和二一年) において高く評価されている。しかしながら、この時点では、プ口ミンの試験が世界各地で十分に行われていなかったこともあって、プロミンの評価について最終的見解を出すには時期尚早であるとの慎重論が強かった。

 ㈡ 第五回国際らい会議 (昭和二三年) においては、ハンセン病治療に目覚ましい進歩があったとされ、プロミンの国際的評価はより進んだものとなった。これは、多くの研究者が実際にプロミンを試し、その著効を目の当たりにした結果であろうと思われる。

 また、この会議までには、DDSも、世界各地で試され、懸念されていたほどの副作用もなく、少量でプロミンに劣らぬ著効が認められることが確認されるようになっていた。

 ㈢ スルフォン剤の国際的評価は、WHO第一回らい専門委員会 (昭和二七年) の報告において、更に確実なものとなった。すなわち、この報告では、スルフォン剤治療が他のいかなる治療形式よりも非常に優れており、ほとんどすべての病型に効果的であるとされた。また、この報告では、DDSについても高い評価がなされ、外来治療の可能性を拡げるものとして、非常に利用価値が高いとされたのである。

 この報告においては、スルフォン剤の評価を踏まえたハンセン病予防に対する考え方の大きな転換が見られる。すなわち、この報告では、強制隔離は決して望ましいものではなく、これを認めるとしても、ごく限られた範囲にとどめるべきであるとの考え方か示されているのである。

 しかしながら、この報告が強制隔離の実施について再考慮を必要とするという控え目な表現をするにとどまっているのは、一つには、大風子油治療がハンセン病に有効とされながらも数年後に高い頻度で再発を起こしたという経験があり、スルフォン剤治療についても、再発の頻度がいまだ明らかになっていない時点で確定的評価を下すことができないと考えられたためであろうと思われる。

 MTL国際らい会議 (昭和二八年一一月) においても、世界の医学者の間では、スルフォン剤の真価は一〇年の経過を見ないと分からないとの意見が少なくなかった。

 ㈣ しかしながら、右報告の後の国際会議でも、スルフォン剤の優位は全く動かず、スルフォン剤治療の実績が積み重ねられるにつれ、ますます確実なものとなっていき、強制隔離否定の方向性が次第に顕著になっていった。特に、ローマ会議 (昭和三一年) 以降においては、ハンセン病に関する特別法の廃止が繰り返し提唱され、第八回国際らい会議 (昭和三八年) では、無差別の強制隔離は時代錯誤であるとまでいわれるようになった。

 2 スルフォン剤の我が国における評価 (各箇所で指摘するほか)

 スルフォン剤の我が国における評価が、前記1の国際的評価と大きく異なっていたわけではない。

 ㈠ 昭和二一年、GHQのサムス公衆衛生部長により、ファジェットのプロミン等に関する文献が日本のハンセン病医療関係者に紹介されたことを契機に、我が国でもプロミン等による治療が開始された。そして、早くも昭和二二年一一月の第二〇回日本らい学会において、長島愛生園、栗生楽泉園及び東京大学におけるプロミンの研究報告がなされいずれもプロミンの治療効果を認めた。また、昭和二三年、昭和二四年の日本らい学会においても、プロミンの治療効果を認める報告が続いた。

 このころ、長島愛生園でプロミン治療を行っていた犀川は、皮膚の結節が自潰してできる慢性潰瘍や鼻道の閉鎖、咽喉頭の狭窄等による呼吸困難の症状が日をおって軽快し、皮膚結節の病理組織検査でも病変が見事に吸収され、らい菌が消失していくなどのプロミンの著効を目の当たりにし、いよいよハンセン病が治る時代を迎えたことを実感した旨述べている(《証拠略》ママ。なお、当時のプロミン治療の効果の一端を示すものとして、甲六九の写真①ないし⑥参照)。

 ㈡ さらに、昭和二六年四月の第二四回日本らい学会において、「『プロミン』並に類似化合物による癩治療の協同研究」が発表され、プロミン、プロミゾール及びダイアゾンが極めて優秀な治療薬であると認められた。

 ただ、この時点においては、再発の可能性を検討するために少なくとも一〇年の経過を観察する必要があるとして、スルフォン剤の評価になお慎重な意見が学会内では根強かった。

 ㈢ しかしながら、我が国でプロミンの治療研究が開始されてから一〇年を経過した昭和三一年ころ以降も、我が国におけるスルフォン剤の優位性は揺るがず、スルフォン剤の評価が見直されたとか、見直さなければならない状況にあったことはうかがわれない。

 最も懸念された再発についてみても、前記第三の七1で検討したとおり、昭和三五年までの再発率は、L型のせいぜい一〇パーセント前後であったことがうかがわれる上、再発の原因も、不規則服用等様々なものがあって、スルフォン剤の治療効果に限界があることを示すものばかりとはいえなかったのであり、また、再発後の治療も多くの症例についてそれなりの成果を上げることができたのであるから、昭和三〇年代に再発の問題がスルフォン剤の評価を根本的に見直さなければならないようなものであったとは認められない。

 もちろん、スルフォン剤の登場によって、ハンセン病医療の問題がすべて解決したというわけではない。しかしながら、進行性の重症患者が激減したことも事実であって、スルフォン剤の登場は、不治の悲惨な病気であるという病観を大きく転換させるものであったというべきである。

 3 被告指摘の事情の検討

 被告が指摘する点のうち、スルフォン剤単剤治療における再発や難治らいについては、前記第三の七、第五の二2㈢で検討したので、以下、被告が指摘する新法制定前後に発行された医学書の記述について検討する。

 ㈠ 一般醫の癩病学 (昭和二六年発行)

 被告は、この書籍に「プロミンによつてよく軽快はするが、未だ全治と断定する迄に至つているものはない。」との記述があることを指摘する。

 全治の定義にもよるが、昭和二六年の時点で全治と断定できる症例がなかったことは否定できないとしても、プロミン治療によって、これまで悲惨な病状を呈しなすすべのなかったものが著しく軽快していることは明らかであって、この書籍も、プロミンの効果について「一大進歩を与えている」と評している。

 ㈡ 日本皮膚科全書 (昭和二九年発行)

 被告は、この書籍の執筆者が行ったプロミンによる治療成績 (なお、治療期間は明らかでない。) の中に、神経らいが増悪した例、結節らい及び斑紋らいに対して稍々効にとどまった例、効果が不明とされた例があることを指摘する。

 しかしながら、被告が指摘しているような例は全体の中では多数とはいえず、特に重症化しやすい結節らいや斑紋らいに対するプロミンの有効性は右実験結果からも十分にうかがわれるのであり、この書籍でも「プロミンは結節、斑紋等の皮膚症状に対しては大風子油が遠く及ばないほどの卓効を示す」とされているのであるから、プロミンの評価を大きく揺るがすものとは考えられない。

 ㈢ 内科書中巻 (昭和三一年発行)

 被告は、この書籍に「確実な治療法は未だ無い」と記述されていることを指摘する。

 しかしながら、この書籍には「結節癩に関する限りは多数の症例がこれ等によって明らかに著明な軽快を示し、これまでの各種の薬剤に比較すると格段の優秀性を具えたものの如くに見える。」とされているのであり、これまたプロミンの評価を大きく揺るがすものとは考えられない。

 なお、乙二八の改訂版である乙六四 (昭和五三年発行) にも同様の「確実な治療法は未だ無い」との記載がある。しかしながら、この時点でリファンピシンの記載もなく、いまだに大風子油の有効性をるる述べる医学書の右記載にどれほどの医学的な意義があるのかは疑問というほかない。

 三 「らいの現状に対する考え方」

 厚生省公衆衛生局結核予防課は、昭和三九年三月、「らいの現状に対する考え方」をまとめており、これには、この当時までの医学的知見及び厚生省の認識が端的に現れている。

 これによれば、「従来の医学においては、らいは全治はきわめて困難であり、隔離以外に積極的な予防手段はないとされていたので、患者の隔離収容に重点をおいてきたのであるが、最近におけるらい医学の進歩は目覚ましいものであり、細部においては未だ不明な点は多々あるものの、らいは治ゆするものであること、らいが治ゆした後に遺る変型は、らいの後遺症にすぎないこと、らい患者それ自体にも病型により他にらいを感染させるおそれがあるものと、感染させるおそれがないものとがあること、らいの伝染力は極めて微弱であって、乳幼児期に感染したもの以外には、発病の可能性は極めて少ないことという見解が支配的となりつつあり (中略)ママらい治療薬の発達により、早期治療を行なったものについては、変型に至るものが少く、又菌陰性になるまでの期間も随分短縮されてきた。」、「こうした医学の進歩に即応したらい予防制度の再検討を行なう必要があるが、その検討の方向としては、第一に患者の社会復帰に関する対策であり、第二は他にらいを感染させるおそれのない患者に対する医療体制の問題であり、第三は現行法についての再検討であろう」、「本病についての特性として、社会一般のらいに対する恐怖心は今なお極めて深刻なものであるので、まずこれについて強力な啓蒙活動を先行的に行わなければ、上記各検討結果による措置も実を結ぶことは困難である」とされている。


第二節 我が国のハンセン病政策変遷等

第一 戦前の状況について

 一 「癩予防ニ関スル件」の制定

 我が国において、ハンセン病は、古くから「業病」とか「天刑病」として差別・偏見・迫害の対象とされてきた。そのため、ハンセン病患者の中には、故郷を離れて浮浪徘徊する者が少なくなく、そのような者は社寺仏閣等で物乞いをするなど、悲惨な状況にあった。これに対し、宗教家が救らい事業に乗り出し、特に、明治二〇年代以降、神山復生病院、慰廃園、回春病院、待労院等の私立療養所が開設されて、ハンセン病患者の療養に当たった。

 ところで、ハンセン病は、明治三〇年に制定された伝染病予防法の対象疾病に含ま