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 七 再発、難治らいについて

 1 再発について

 ㈠ 多剤併用療法の場合の再発率は極めて低いとされているが、スルフォン剤による単剤療法の時代には、LL型、BL型患者の再発が少なくなかった。

 なお、治療前の症状発現・増悪を再燃、治癒後の症状発現を再発ということもあるようであるが、ハンセン病では治癒の判定が難しいことから、ここでは両者を特に区別しない。

 ㈡ 再発率

 再発率については、様々なデータがある。

 甲一二四 (らい医学の手引き、昭和四五年発行) は、昭和三五年までの厚生省共同研究班によるらい腫型の再燃に関する研究によると、「スルフォン系治らい剤を用いた場合の再燃の比率は五ないし一三%ほど」であったとしている。

 また、乙八一 (レプラ続刊、平成五年三月発行) は、星塚敬愛園に昭和二〇年から昭和三〇年までに入所した新入所者についての化学療法後の再燃を昭和四一年に調査した報告によれば、調査患者の二〇・三パーセントに再燃が見られたとしている。

 また、長尾榮治 (大島青松園副園長。以下「長尾」という。) は、乙二九 (平成一〇年のハンセン病医学夏期大学講座教本) において、DDS単剤療法の場合の再発率は四ないし二〇人に一人であるとしている。一方、証人長尾は、DDSないしプロミン治療の場合、L型患者の約三〇パーセント前後に再発がある旨証言している。

 甲七 (三二八頁) は、DDSによる治療について「多菌型患者の場合、世界的にみて三〇%以上の再発者を出す結果となった。」としているが、このデー夕が我が国に当てはまるのかどうかは明らかでない。

 このように再発率のデータにばらつきが見られる。その原因としては、調査時期や再発率を累計する期間の長短などが考えられるが、いずれにしても、長い期間を通してみると再発率は低いとはいえない。

 なお、リファンピシンは耐性菌が出現しやすいとされているが (甲七の一一八頁)、乙八一 (六頁) によれば、調査した六四症例 (昭和四七年から平成四年までに再発したもの) のうち、リファンピシンを服用していたものは、不規則服用の一例のみであったとされており、我が国において、リファンピシン治療による再発が多数生じていたことを認めるに足りる証拠はない。

 ㈢ 再発の原因

 再発の原因について、甲一二四 (二〇四頁) によれば、薬剤使用量の不足、使用方法の不適、不規則な服用投与、耐性菌の発現、生活環境等が挙げられており、「治療態度が怠惰になる時期と再発の比率が高まる時期とがおおむね一致する」、「プロミン及びプロミゾールともに、これらを計画的かつ規則的に用いて治療した場合の方が、そうでない場合よりも再燃の比率が低くなる」、「プロミンによる治療を何らかの理由で中止した場合に、再燃の比率が高くなる最も重大な要素は、中止した時点での治療効果が不完全なことである。」とされている。

 また、甲七 (一一四頁) によれば、DDSの耐性発現率は低いとされ、乙八一 (一〇頁) でも、「DDS少量服用でらい腫型再発をきたした数例に、化学療法を変更する前にまずDDSを一〇〇mgに増量して経過を見たことがあるが、ほとんどの場合に皮疹の吸収が起こっている。このことから、DDSの二次耐性も一般に考えられるほどは多くはないと思われる。」とされている。

 他方、犀川は、証人尋問において、我が国で多くの再発者を出した要因として、退所後のフォローアップが不十分であった点を挙げ、そのために多くの再入所者が生じた旨証言しており、我が国の療養所中心主義ともいうべき政策の矛盾の一端がここに現れているということができる。

 以上のとおりであり、スルフォン剤単剤治療において再発が少なくないのは、治療が長期間にわたることや治療を受ける患者個の事情も含む様々な要因によるものであると考えられる。

 ㈣ 再発後の治療

 甲一二四 (一九五頁) は、「治療に悩まされる再燃例もある。もっともそのような症例に対しても、一応はDDS (または他のスルフォン系薬剤) の与薬方法を変更して二か月ほど経過を観察し、もし効果が期待できないようであればストレプトマイシンなどを用いるが、結局はDDSの有効なことが少なくない」としている。また、乙八一も、再発に対して、DDSを増量しただけで効果のあった症例を紹介している。

 再発後の治療については、昭和四六年以降のリファンピシンやクロファジミンの登場により進歩を遂げたことは間違いないであろうが、それ以前においても、DDSを中心にその時々に使用可能な薬剤 (ストレプトマイシン、カナマイシン、CIBA一九〇六、エタンブトール等) をも駆使しながら、それなりの治療成果を上げていたものと考えられる。

 2 難治らいについて

 昭和四〇年ころ以降、スルフォン剤によって治療困難な「難治らい」と呼ばれる症例が現れるようになり、学会でもこのことがしばしば取り上げられた (なお、難治らいの定義は必ずしも一定していないが、甲七の一六二頁参照)。

 難治らいの原因としては、DDS耐性が考えられ (ただし、証人和泉は、人体側の要因が強く関わっている旨証言し、その可能性も否定できない。)、昭和四六年以降のリファンピシンの登場により、この問題はかなり克服されたものと考えられる。

 なお、宮古南静園長であった馬場省二は、甲一四四 (昭和五七年発行) に、同園において「医師不在、短期間の派遣医師の入替えにより診療が支えられた期間が長かった為に、一貫した治療方針が維持できず、所謂難治らいとなってしまった症例が一一名もある。」と記述しており、証人長尾も、これを肯定する証言をしている。

 難治らいの症例数がどの程度あったのかは証拠上明らかではない。難治らいは医学的には重要な問題であったかもしれないが、我が国においてハンセン病政策全体を左右しなければならないほど多数の症例があったとは認められない。

第四 ハンセン病に関する国際会議の経過

 ハンセン病に関する国際会議の経過は、その時々のハンセン病の医学的知見やハンセン病政策の世界的傾向を知る上で参考になるので、以下、これについて見る。

 一 戦前の国際会議について

 1 第一回国際らい会議 (明治三〇年、ベルリン)

 ハンセンが明治七年にハンセン病の伝染説を発表した後も、伝染説はなかなか学会の承認を得られなかったが、この会議でようやく伝染説が国際的に確立された。

 この会議では、「らい菌は真の病原である。」、「生活条件と人体内への侵入経路は不明。恐らく人に対する侵入門戸は口腔及び鼻腔粘膜である。」、「社会的関係が悪ければ悪い程周囲に対する危険性が大である。」、「らいは今日までこれを癒すあらゆる努力に抵抗した。従ってらい患者の隔離は、特に本疾患が地方病的或は流行病的に存在する地方では望ましい。ノルウェーにおいて隔離によって得られた結果はこの方法の徹底を物語るものである。ノルウェーと似た関係の場合にはらい患者の隔離は法律的の強制において遂行すべきである。」とされた。

 なお、りん菌の発見者でありハンセン病の伝染説の確立に貢献した細菌学者であるナイセルは、この会議において、「らいは疑もなく伝染性であるがその伝染性の程度は而し顕著ではないし又各型によって異なって居る。(中略)ママ 総てのらい患者を一つの規格に従って取扱い隔離しようとすることは誤りである。(中略)ママ 総てのらい予防は一つの隔離、家庭からの分離から始まる。らいをその初期に絶滅させる事の出来る場所では規則は極端に厳重でなくてよい。」と述べた。

 また、ハンセンは、隔離がハンセン病患者を減少させることを強調しつつ、隔離の在り方について、「もしらい患者が家庭に居るならば彼らは自分の寝床と出来るだけ自分の室をきめ、更に自分の食器をもつことが要求される。これ等のものと洗濯物は特別に洗われる。清潔に対する教育が主である。ただそこを支配する清潔によってらいは北アメリカでは蔓延しない。規則の守られない所では患者は療養所に来なければならない。」と述べた。

 また、他の参加者からは、「強制的に患者を引き渡し拘留すべき必要があるかどうか疑問である。」とか「隔離が唯一の方法ではない。」との意見も述べられた。

 2 第二回国際らい会議 (明治四二年、ベルゲン)

 この会議では、第一回国際らい会議の決議が確認された。そして、隔離は、患者の自発的施設入所が可能であるような状況 (家族への生活援助等) の下で行うべきこと、隔離には家庭内隔離措置もあり、家庭内隔離の不可能な浮浪患者の施設隔離は、場合によっては法による強制力の行使もやむを得ないこと、らい菌の感染力が弱いこと、子供は伝染しやすいので患者の親から分離することが好ましいことなどが決議された。

 3 第三回国際らい会議 (大正一二年、ストラスブルグ)

 この会議では、①らいの蔓延が甚だしくない国においては、病院又は住居における隔離は、なるべく承諾の上で実行する方法を採ることを推薦する、②らいの流行が著しい場所では、隔離が必要である、この場合、a 隔離は人道的にすること、かつ、十分な治療を受けるのに支障のない限りは、らい患者を、その家庭に近い場所におくこと、b 貧困者、住居不定の者、浮浪者その他習慣上住居において隔離することのできない者は、事情により病院、療養所又は農耕療養地に隔離して十分な治療を施すこと、c らい患者により産まれた子供はその両親より分離し、継続的に観察を行うことなどが決議された。

 また、この会議では、伝染性患者と非伝染性患者とでハンセン病予防対策を区別する考え方が主張された。

 4 国際連盟らい委員会 (昭和五年、バンコク)

 この委員会の報告では、治療なくして信頼し得る予防体系は存在せず、隔離がハンセン病予防の唯一無二の方法ということはできないとして、予防対策としての治療の重要性が強調された。また、右報告では、隔離は伝染のおそれがあると認められた患者にのみ適用すべきであることが明記された。

 なお、同委員会が昭和六年に発行した「ハンセン病予防の原則」は、右報告と共通の考え方を示した上、隔離には患者の隠匿を促進し診断・治療を遅らせる欠点があることを指摘し、感染性がない患者や発病初期の患者に対して、可能な限り、外来の治療施設で治療されるべきであるとしている。

 5 第四回国際らい会議 (昭和一三年、カイロ)

 この会議では、開放性患者の施設隔離について、「強制隔離から徐々に自発的隔離へ推移している国もある。(中略)ママある国家では強制隔離がなお実施され、推奨されるべきものとして認められている。このような所では、患者生活の一般的条件は自発的隔離の場合とできる限り同様でなければならず、合理的退所期も保証されねばならない。(中略)ママ自発的隔離組織の国家では衛生当局が公衆衛生に脅威であると思われるくらい患者の隔離を強いるよう力づけすることを勧告する。」とされた。また、感染のおそれについては、「らい者と共に働く者でも、感染に対し合理的注意を払えば殆ど感染しないという事実を歴史は示している」とされた。

 二 戦後の国際会議について

 1 第二回汎アメリカらい会議 (昭和二一年、リオデジャネイロ)

 この会議において、ファジェットは、ス