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重を期すこと」が盛り込まれ、これを受けて現実には外出制限をしない運用が図られてきた。無断外出を理由にした罰則の適用例は昭和三三年の一件のみである。また、昭和二八年以降に無断外出による懲戒処分がなされたとの証拠はない。

 療養所では、昭和四〇年代から自動車での外出が自由となっており、長島愛生園では、フェリーに自動車を積んで外出していたことまで認められる。高度経済成長期の昭和三〇年代、四〇年代には多くの労務外出者も出ている。さらに、少なくとも昭和五〇年ころ以降、外出について、事前の許可制を採っていた園はない。菊池恵楓園においては、既に昭和三九年には菌陰性者の外出は届出のみでよい旨公的にも扱われており、菌陽性者であっても自由に外出していた入所者もいた (原告四三番)。もっとも、外泊を伴う外出の場合には、形式的に書類上の外出許可の決裁が一部残っていたようであるが、その実態は園にとっての所在確認等のための全くの届出であった。また、施設長としても、無許可の外出に対し刑罰を科し得る条項の存在を知らなかったのであり、右事実のみをもってしても外出制限の可能性が全くなかったことが明らかである。

 甲五のアンケートによれば、回答者のうち七一パーセントが、昭和四九年までに自由に園外に出られるようになったと答えている。しかも、右アンケートによると、自由に出られない理由としては、「老齢」、「後遺症」、「差別偏見」が多く、罰則をおそれたとの回答はない。右アンケートの結果は、入所者が、外出について実際上、法的にも何の制限もないと認識していたことを如実に物語っているといえる。

 入所者の著述などにも、外出が自由であったことを認めたものが多数ある。

 なお、警官等に質問される場合などに備えてあらかじめ外出許可証の交付を受けたことのある入所者もいたようであるが、外出許可証がなければ外出できないというわけではなく、入所者の希望により交付されたにすぎず、右の交付を受けない入所者も多数いた。また、新法を知っている警官がどれだけいたかも疑問であって、右が外出に対する制限となっていたとは考えられない。

 さらに、遅くとも昭和五〇年ころ以降は、菌陰性かどうかに関係なく、自由に退所することができた。また、園に籍を置きながら生活の本拠を療養所外に置いていた長期外泊者も相当数いた (原告二一番、二八番、四七番、六一番、六三番、一一六番など)。このような状況は、外出が制限されていなかったことを裏付けている。

 以上のとおり、療養所における外出許可は、その実態においては、他の一般の国立療養所の入院患者が外出の際に要するとされる病院の承認以上の意味を持たず、他の一般の国立療養所よりもむしろ外出は自由であった。

 ㈣ 終生隔離政策

  ⑴ 原告らは、患者を療避所に隔離して終生退所させない政策を「終生隔離政策」と称しているものと思われる。

  ⑵ しかしながら、療養所では、大正二年から正式に退所者が出ており、沖縄愛楽園では、昭和二八年以前に退所基準を策定しており沖縄では、これまでの全入所者の実に約六割が退所している現実がある。

 また、沖縄以外でも、入所者自身の調査によれば約七〇〇〇人が社会復帰したとされている。

 新法及び旧法には退所の規定がなかったが、退所規定の不存在は、国が入所者を退所させない政策を採っていたことを意味しない。旧法及び新法に関する国会での政府答弁では、いずれも、治癒の場合の退所を当然のことと説明しているし、また、新法は「治ゆ」について定め (四条)、社会復帰を前提とした更生指導の規定を置いている (一三条)。実際にも、各療養所で、自動車運転免許講習等更生指導の実績があったほか、結核療養所等にはない社会復帰援助事業が行われ、退所者には支援金が給付されてきた。新法附帯決議中にも退所を前提とした事項がある。また、各療養所の管理者も、退所規定がないことが退所の障害となるとは全く考えていなかった。昭和三一年に作成された軽快退所暫定準則案は療養所長を拘束するものではなく、同準則案の希望事項等も、入所者の生活を保護するためのものだった可能性すらある。

 入所者の中には、治癒しても後遺症その他の理由から園にとどまりたいと考えている者も多く、それらの者は療養所による強制退所を恐れる状況にあったのであり、療養所としても入所者が望まない退所を強引に押し進めることはしてこなかった。なお、昭和三二年の国立療養所入所規程七条が、退所命令の対象からハンセン病患者を除いているのも、患者の意思に反する退所命令をしないとの趣旨のものである。

 原告らは、右準則案の非周知性を理由に、退所ができることを入所者は知らなかった旨主張するが、全患協ニュースにも掲載され、さらに、多くの軽快退所者が出ていた事実によれば、入所者が軽快退所できることを知らなかったなどとは考えられない。また、法的に退所できるかどうかは入所者の大きな関心事であるところ、軽快退所はもちろんいわゆる自己退所においても療養所側がこれを制限しなかったため、実際に多くの退所者がいたのであって、これを目の当たりにした入所者が法的に退所できることを知らなかったなどとは考えられない。

 軽快退所の可否は、療養所長が自由に裁量で決め得るものではない。その時々の医学的知見にのっとった治癒の判断が要請されたのであって、客観的知見に照らし治癒していると認められるのに退所させない処分があった場合には、入所者がこれを法的に争うことができるのは当然である。そして、治癒の判定基準に合致しない場合でも、入所者が望めば自らの意思で自由に退所できた。これは療養所も正式に承認する退所であって、逃走などと位置付けられるものではなく、当然ながら遅くとも新法施行後、自己退所者に対し刑罰や懲戒処分が なされた事実は一切ない。

 原告らの中には、軽快退所したいとの申出をしたにもかかわらず、療養所がこれを認めなかったために退所できなかったという趣旨の供述をする者がある。しかし、これは、退所の不許可を意味するものではない。療養所側が、当該入所者の病状や退所後の生活の見通し等も考えて、本人のために退所を思いとどまってはどうかとの助言をすることかあり得るが、これは、あくまで助言にすぎず、退所を希望する者を療養所が押しとどめることなどはあり得ない。実際に助言に従わずに自己退所をした例もある。

 また、原告らの中には手続上退所はしていないけれども、生活の本拠は療養所外にあるという長期外泊者もいたが、これらの者は、患者給与金や医療等の提供を受けるなど、入所者であるという地位に伴う利益を受けることを自ら選択しているのであるから、これらの者を退所させなかったことによる損害はあり得ない。また、極めて特殊な形態として、結婚して療養所外に生活の本拠を持ちながら、療養所内の自耕地の耕作や食事、患者給与金等の各種給付を得るために、その生活の本拠と療養所を頻回に行き来していた者もいる (原告四七番)。療養所は、このような入所者の極めて変則的な生活形態を知りながら、黙認していたのである。

 社会内に差別・偏見が存在することを恐れ、あるいは、いったん療養所に入所したことによる烙印付けによって療養所から離れられなくなってしまうとの原告らの主張は、多くの社会復帰者が存在する事実に照らせば、全く理由がない。

 原告らは、入所者の入所期間が長いことを終生隔離政策が採られていたことの根拠とするようであるが、多くの退所者がいるという現実を見ないのは論外である。他方、現在のほとんどの入所者の入所期間が長期に及んでいるのは、後遺症を残したことに起因するところが大きい。顔面、四肢の変形等を含む後遺症が重い等の理由で社会復帰できない人が相当数いることは事実であるが、このことは終生隔離とは関係がない。このような者が後遺症の治療あるいは介護を受けるために退所することができず、安心して暮らすたにめに入所の継続を選択せざるを得なかったとしても、これは事実上退所ができなかったというものであり、国によって強制的に隔離され続けていたわけではなく、法的に自らの意思で入所を継続していたものと評価されるべきものである。入所者が現に受けている給与金や現実の介護などの処遇を失うことを恐れて退所しないのは、隔離政策を採っているのと同じであるとの原告らの主張は、法的には何の理由もない。

 原告らは、入所による家族や故郷の喪失が退所できない理由であると主張するが、仮にそのような入所者がいたとしても、右は共通損害ではなく、また、家族との堅い絆を持っている原告も数多くいる。

 また、求職の困難性については、後遺症によって自活できるだけの労働ができない入所者が非常に多いことが大きな要因である。しかし、後遺症は、疾病自体によるものであって、国の政策や法律の存在とは関係がない。なお、退所を希望する者に対しては、就労助成金を支給する制度等があったほか、療養所としても、社会復帰を希望する者に対して、ケースワーカーを通じて職業紹介をするなど、可能な援助はしていた。

 就業禁止は、接客業など政令に定めた特定の職業について、都道県知事が、伝染のおそれがあると認めた場合に限りされるものであり、実際上、禁止された実例は資料として残っておらず、原告らも就業禁止処分を受けたとの主張をしていない。

 ㈤ 絶滅政策

 ⑴ 原告らは、絶滅政策を、患者を隔離して死に絶えるのを待つ政策と主張するようであるが、これが、被告が積極的に適切な医療をしないで患者を死なせようとの政策的意図を有し、また、患者作業で傷害を与えて死なせようとの意図を有していたとの趣旨であれば荒唐無稽である。

 被告としては、退所を自由に認めつつ、入所者が望む限り、療養所に居続けることを認め、そこで天寿を全うしてもらうべく福祉的施策を講じてきたのであって、患者の絶滅を期待する政策などでない。

 ⑵ 断種堕胎

 甲五のアンケート結果を見ても、断種や堕胎をした者は、回答者の約四割にすぎない。

 原告らの陳述書によれば、結婚する際になされた断種あるいは堕胎の時期は、遅くとも昭和三〇年代後半までであり、少なくとも昭和二三年に優生保護法が制定されて以降は、同法に基づき原告らの同意の下に優生手術が行われていた。

 原告らは、自らは断種又は堕胎を受けたわけではないが、療養所では子供は持てない、あるいはハンセン病患者は子供は持てないと考えていた者もおり、これらの者についても、政策として優生政策が採られたことによる被害を受けていると主張している。

 しかしながら、一般に国立療養所において入所者同士が結婚し子供を持てないのは当然のことであり、その反面、退所すれば子供を持つことに何らの制限もないし、もとより、在宅患者は断種手術などだれからも要請されることもない。してみると、療養所では子供は持てないとか、ハンセン病患者は子供は持てないと考えていたという問題は、入所者に退所の自由があったのかどうかの問題であって、これを優生政策と結び付けるのは、明らかな論理の飛躍である。まして、原告らの中には退所するしないにかかわらず、子供をもうけた原告が多数存在するところ (原告一〇番、二二番、二三番、二四番、二八番、二九番、三〇番、三一番、三七番、四一番、四二番、四七番、五七番、六二番、六五番、一一五番)、原告らはこれらの者についても自らが断種堕胎を受けたのと等しい共通損害があると主張しているのであり、右のような原告らの主張は理解不能というほかない。