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認め、これをその場で見分すると血痕とみられる斑痕(左胸付近)を発見したので、重要な証拠品であると思料し、右海軍用開襟白色シャツの押収方を〔丙9〕巡査部長に依頼し、自らは原告那須隆の任意同行にあたった(なお、右海軍シャツは当時原告那須隆が着用しており、任意同行を求められるやこれを着がえたものであった。)。
 〔丙9〕巡査部長等は、捜索の結果、凶器を発見することができず、また多数の衣類の存在を認めたが、明らかに血痕とみられる斑痕の付着しているものは、前記海軍用開襟白色シャツ一枚(以下「本件海軍シャツ」という。)のみであったので、これと対をなす鴨居の下にあったズボン一枚及び違法所持と認められる拳銃一丁をそれぞれ押収した(多数の衣類のなかから本件海軍シャツを押収したことは、捜査員が右証拠品を重視していたことの証左である。)。
 捜査本部は右押収にかかる本件海軍シャツに付着している血痕とみられる斑痕を重視し、捜査員はいずれもそのころ本件海軍シャツを検分し右斑痕を確認した。なお、同日午後七時三〇分ころ、弘前市警察署において原告那須隆を逮捕した。

四 本件凶器の未発見

 ところで、捜査本部は、凶器の発見に全力を挙げるべく、また本件海軍シャツ以外に多数の衣類があった旨の報告に接し、念のため右衣類についても一括押収しておくべきものと判断し、再度翌二三日捜索差押令状の発布を得、〔丁2〕方を捜索したが、眼目である凶器の発見をなしえず、国防色ズボン二着、同ワイシャツ一枚、白ワイシャツ六枚、靴下二足、革バンド一本、ノート一冊、小手帳二冊、手紙六五通、名刺五一枚、赤皮編上靴一足を押収したにとどまった。
 捜査本部はなおも凶器の発見に腐心し、〔丁2〕方便所等の捜索に手抜かりがあったとの判断から、更に翌二四目捜索差押令状の発布を得、捜索したが、遂に凶器を発見することができなかった。なお、その際、〔丁2〕から黒ズボン一着、浴衣一枚、革バンド一本、白ズック靴(運動靴)一足、白運動シャツ一枚の任意提出を受けて領置した(なお右領置調書は、翌八月二五日作成されたため、同日付の記載がなされている。)。
 右のとおり二三日、二四日の両日なされた捜索差押は、凶器の発見に主眼が置れていた。

五 松木医師による本件海軍シャツに対する鑑定

 1 捜査本部は前記押収にかかる本件海軍シャツを重視し、同年八月二三日ころ、松木医師に本件海軍シャツに付着する斑痕の鑑定方を依頼し、〔丙〕技官をして同医師 の鑑定作業に協力させた。〔丙〕技官は、松本医師の指示により、本件海軍シャツに付着している斑痕のうち乙一一一号証(鑑定書)図参記載の「⊗対照の点」とある部分を切りとり、これを検査に供した(実は、再審判決に至る全記録を検討するも、右点を、誰が、いつ、切りとったものか、明確にされてはいない。しかし、斑痕付着(部分)付近を対照の点として切りとることは、通常考え難いことである。現に松木医師においては、斑痕付着部分と全く関係のない本件海軍シャツ背面を対照の点として切りとっているのである。しかも、〔丙〕技官は昭和五一年一一月九日(再審)公判廷において、「あなたの記憶ですと、海軍シャツは一番最初にどこに鑑定に回されて、その次、どこに回ってという順序になりますか、記憶から。」 と質問を受け、「松木先生、一番先です。」旨、更に「科捜研に回す前に松木先生が鑑定したといういきさつあるんですか。」 と質問され、「……あるような気がします。」旨証言し、松木医師も同年四月二六日(再審)公判廷において、本件海軍シャツについて「一番最初に私、見ておりますから、その時切り取ったものと思います。」「それは引田先生のところへあげたのは私が調べたあとじゃないかと思いますが。」「私が最初にそれを見せてもらって一番先調べたというふうに考えておりますが。」と証言していたのであるから、右両名に十分記憶の喚起を促し、右証言の真偽に慎重な考察が加えられてしかるべきであった。後述するとおり、乙一一一号証、一一二号証の二等には誤った記載が散見されるが、これは鑑定実施等から相当時を経過してから書面として作成されたことによるもので、右書証等の作成日付及び記載の誤りについては、書証としての杜撰な点を非難するのは格別必要以上にとらわれるべきではない(右書証等の証拠評価は、捜査の推移を念頭において考察すべきものである。)。そして右鑑定の結果、本件海軍シャツ付着の斑猿は人血で、且つ、B型であることが判明した。
 2 一方、八月二三日、原告那須隆から血液を採取し、松木医師に右血液型の鑑定を依頼したところ、B型で被害者〔甲〕の血液型と同一であることが判明した (乙九六号証の一の記載中「昭和二四年八月二〇日原告那須隆の血液採取」とあるのは誤記である。右誤記については後述する。)。そのため、本件白ズック靴、同海軍シャツ付着の血痕が、B型であることを確認しただけでは決め手を欠くに至り、更に血液型区別の鑑定が必要となった。

六 引田医師による鑑定

 1 ところで、捜査本部は被害者が弘前大学医学部教授の夫人であり、同大学には法医学教室が設置されていたことから、同大学に鑑定を嘱託することにしたが、当時の検察・警察幹部は、同大学で法医学の講座を担当していた引田一雄医師(北海道帝国大学医学部卒業)の学問上の能力について、かつて〔乙58〕にかかる尊属殺被告事件において、凶器付着の血液型鑑定を誤った経歴を有していたこと等から全幅の信頼を置くことができず、そのため、事前に松木医師に鑑定を依頼して一応の判断を得たうえ、引き続き、引田医師に鑑定嘱託することとした(当時大学等の機関でなされる鑑定には、結果が判明するまで相当の日時を要することが通常であったため、その間、捜査方針を決定できないまま徒らに日暗を経過するのを避ける目的もあった。)。