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 2 同年八月二四日引田医師に鑑定嘱託し、まず同月二三日押収にかかる国防色ズボン二着、同ワイシャツ一枚、白ワイシャツ六枚、靴下一足、革バンド一本、赤皮編上靴一足(乙八九号証)並びに同月二四日任意提出を受けた黒ズボン一着、浴衣一枚、革バンド一本、白ズック靴(運動靴)一足、白運動シャツ一枚(乙九〇号証)を一括して(本件白ズック靴、同海軍シャツは含まれていない。)行李に詰め、これを鑑識課雇〔丙13〕が、引田医師のもとに運び込んだ。
 右証拠品は、前記四記載のとおり念のため押取したものにすぎず、素人目にも一見して血痕様の斑痕を認めないものであったため、これらについては、捜査本部も松木医師に鑑定を依頼することなく、直ちに引田医師のもとに運び込み鑑定を嘱託した。
 そして、同日、引田医師から鑑定を実施する旨の連絡を受けた捜査本部は、前記山本署長等幹部が、本件白ズック靴を引田医師のもとに持参し、同医師に右ズック靴の斑痕(前記のとおり、既に松木医師により、右斑痕は人血で且つB型である旨の鑑定を得ていた。)の鑑定を依頼し、その実施に立会った(引田医師が昭和五一年四月二六日(再審)公判廷において鑑定物件が運び込まれた経緯について、「ズックはそれから間もなく、これは被疑者が履いていたくつだというので別個に持ってまいりました。」「……こうりに入れた衣類やなんかを持ってまいりまして、それから次いでズック靴を持ってまいりまして……」旨証言しているのは、まさしく右事実に添うものである。なお乙六〇号証参照。)。
 3 ところが引田医師は、本件白ズック靴についてルミノール反応検査を実施したが、反応を示さず、靴の紐について血液反応検査をしたが、その付着を認めない旨鑑定した(この点は、その後の捜査活動を理解するうえで極めて重要である。)。引田医師の右鑑定に接した山本署長等は、松木医師の鑑定結果と全く異なる判断がなされたことに驚愕した。そして引田医師のルミノール反応検査(同医師はこれまで右検査の経験がなかった。)が、 ルミノール液を噴霧すべきを筆で塗りたくっており、その不手際のため血痕が流されて反応がでなかったのではないかと疑い、前記のとおり同医師にかねて不信を抱いていたので、一層不信を募らせ、このような稚拙な(少なくとも同署長等はそのように理解した。)方法では到底承服し難いと考え(もっとも乙六五号証の記載をみると、既に松木医師の鑑定実施により付着血痕が失われた可能性が強いと思われる。)、即日検事沖中益太に報告のうえ、直ちに権威筋すなわち東京大学法医学教室ないし科学捜査研究所で再鑑定すべきことを決定した。
 4 本件海軍シャツは、この間前記のとおり松木医師のもとで鑑定に供されていたのであり、次いで引田医師に鑑定依頼される手はずになっていたが、右の如き経過によって権威筋への再鑑定が決定されため、本件海軍シャツは遂に引田医師のもとに運び込まれることはなかった(なお、山本署長は、昭和五一年一一月九日(再審)公判廷において、引田医師に対する本件海軍シャツの鑑定依頼について尋ねられ、「これは鑑定を依頼したと思いますが、はたして鑑定したかどうかということはですね。」旨懐疑的な証言(乙六〇号証)をしていたのである。)。
 八月二四日、原告那須隆の送致を受けた検察官は、翌二五日青森地方裁判所弘前支部に対し勾留請求し認容された。
 5 ところで前同日、捜査本部は前記決定に基づいて、科学捜査研究所(以下「科捜研」という。)にその旨の照会をし、「被害者、容疑者の血液並びに物件を東大法医学教室に依頼し、東大で事務繁忙その他で迅速に出来ない際は、科学捜査研究所へ依頼するとよい」「鑑定物件は郵便等で送る等のことなく直接持参した方がよい」旨の返答を受け、直ちに右鑑定嘱託の準備にとりかかり、同日、まず引田医師のもとに運び込まれていた前記鑑定物件(同月二三日及び翌二四日押収ないし任提領置したもの)を引き揚げた(引田医師はその間後述するとおり若千の鑑定を実施している。なお、本件白ズック靴については前日二四日鑑定終了後引き揚げたものとみられる。)。

七 科学捜査研究所における鑑定

 1 同年八月二六日弘前市警察署長は青森県警察隊長に対し、鑑定資料「一被疑者衣類並に靴、赤革編上靴一足、白色ズック靴二足(うち一足が本件白ズック靴である。)、黒ズボン一枚、海軍白ズボン一枚、進駐軍放出ワイシャツ一枚、国防色軍隊ズボン二枚、白ワイシャツ一枚、白半袖開襟シャツ二枚、海軍シャツ四枚(うち一枚が本件海軍シャツである。)、ランニングシャツ一枚、浴衣一枚、靴下二足、靴下止め一本、赤革バンド二本、計二二点、二血液、松永夫人血液(本件犯行場所の畳に付着したもの)一点、容疑者血液(原告那須隆の生血)一点、路上採取血液三点、計五点」の鑑定方を依頼した(本体白ズック靴、同海軍シャツだけを取りだして鑑定依頼したものではない。)。
 なお、前記五、2記載のとおり、このころには既に被害者と原告那須隆との血液型が共にB型であることが判明していたので、区別の必要から、「型が判明の場合はMN式で判別出来得るや否や、出来得ればその型」旨の鑑定事項が加えられた。
 2 青森県警察本部鑑識技官綿谷弘四及び〔丙〕技官の両名は、同月二七日前記鑑定物件を持参して上京し、科捜研に赴いたが、同研究所が繁忙のため、右物件の引渡 は同月三〇日になされた。
 3 科捜研では、警察技官〔丙3〕、同平嶋侃一の両名が同年九月一日より同月一〇日までの間、右鑑定にあたり、本件白ズック靴については、「血痕は証明し得ず。」との、本件海軍シャツについては、「汚斑は血痕であり、血液型はB型の反応を示した。」旨の鑑定をなし、他の物件については特段の検査の必要なく(この点前記六、2記載のとおり捜査本部においても同様の判断をしていた。)、「他の資料よりは、血痕証明至難であった。」旨の鑑定をなし、また、「三、松永夫人、容疑者、路上採取