コンテンツにスキップ

Page:EkiToJinsei.djvu/38

提供:Wikisource
このページは校正済みです

も本章は但だ初學者のために易の一般を講述せんとするのみ。所謂附錄の類である。

 易の發明は多分支那人が中央亞細亞に住して牧畜を以て業として居る時にあつたのであらう。卽ち伏犧氏は牧畜時代の名稱であつて神農氏は耕作時代を指すのである。易は伏犧氏の作だとは古來の傅說であるが卽ち易が支那の漢人種が黃河の上流に居た時に出來たものであるといふことを證明するものと思われる。ド・ラクーペリーが易はバビロニアから傅はつたものだといふ說は首肯出來ないが、易の創設が中央亞細亞にあつたといふことは面白いと思ふ。

 伏犧氏は牧畜時代で中央亞細亞に居り神農氏は耕作時代で黃河の上流に來つたものであることは自分は種々な書に於て述べたことがあるが、各社會を通じて此の種の變遷あることは社會學上の事實にして、支那に於て牧民、群牧などいふ牧の字の用ひられ居ることや、又は其中央亞細