○津山侯の藩醫に、宇田川玄隨といへる男あり、これは元來漢學に厚く博覽强記の人なり、此業に志を興し、玄澤によりて彼國書を習ひ、其紹介にて翁と淳庵へも往來し、桂川君良澤へも漸く交を通じたり、〈後に長崎前きの通詞家白河侯の家臣となりし、石井恆右衞門といふ人抔へも出入し、彼の言語の數々をも習ひしが、元來秀才にて鐵根の人ゆゑ、其業大に進み一書を譯し、內科撰要と題せる十八卷を著せり、是れ簡約の書といヘども、本邦內科書新譯の始なり、惜しいかな四十餘にして泉路に赴けり、此書沒後にいたり漸く全部の開板なれり、〉
○京師に小石元俊といへる醫師あり、獨嘯庵の門人にて、醫事に志至て厚き男なり、翁固より相識れる人にあらず、彼れ始て解體新書を讀みて、千古の說に差ひし所を疑ひ、親ら數々觀臟して斯書の着實なるに感じ、爾來深くこれを喜び、翁へ書信を通じて、猶其解しがたき所を尋問せり、天明五年の秋、翁侯家に陪して其國に罷りし歸路、上京京せし時、滯留の間日夜來りて問難したり、其後は東遊し玄澤が僑居を主とし、在留一年に近く、每々社中と此業を討論せり、蘭學とては爲ざれども、歸京の後其塾に於て、出入の諸生徒に解體新書を每に講じて、其實法を人に示せしと、これ關西の人を誘發せしの一つなり、
○大坂に橋本宗吉といふ男あり、傘屋の紋かく事を業として、老親を養ひ世を營めりと、不學なれど生來奇才あるものゆゑ、土地の豪商ども見立て力を加へ、江戶へ下して玄澤が門に入れたり、僅の逗留の間出精し、其大體を學び、歸坂の後も自ら勉めて其業大に進み、後は醫師となりて益此業を唱へ、從遊の人も多く、漸く譯書をも爲し、五畿七道山陽南海諸道の人を誘導し、今に於けるいよ〳〵盛なりと聞けり、江戶へ來りしは寬政の初年の事なり、歸坂の最初右の元俊も、彼が志を助けて其業を勵ましめしとなり、
○土浦侯の藩士に、山村才助といふ一奇士あり、其叔父市川小左衞門を介として、翁に蘭學の事を問ふ、翁其ころは年老て、此業を以て悉く門人玄澤に託したれば、玄澤彼國文二十五字よりして敎立たり、天性其才備り殊に地學をこのみ、專ら其筋を專精せしが、白石先生の采覽異言を增譯重訂して、十三卷の書を譯撰す、栗山先生の推擧によりて官へも內獻せり、其餘翻譯の內旨も奉じたりしが、其業も全からずして卽世せり、惜むべしと云ふべし、萬國輿地の諸說は、未だ漢人の知らざる所のもの多し、是れ蘭學のこゝに