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Page:Bunmeigenryusosho1.djvu/62

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に上せず、一體豪氣は薄けれども、すべて浮たる事を好ず、和蘭の窮理學には生れ得たる才ある人なり、翁其人と才とを愛し、務めて誘導し、後々は直に良澤翁に託して此業を學せしに、果して勉勵怠らず、良澤も亦其人を知りて骨法を傳へしゆゑ、程なく彼書を解する事の大槪を曉れり、其際同僚淳庵、桂川法眼、又福知山侯抔と往來して、此業を講究せり、又大に志を興し、此上は西遊して長崎に至り、直に彼通詞家に從ひ學び試たきよしをはかりしゆゑ、我も良澤も喜び許し、汝壯年行け矣勉めよや、其事を濟さば宿業益々進むべしと慫慂せしにより、愈憤起して志を負笈に決したり、然れども素より貧生の事なれば、力の及ざる事どもなり、翁其志に感じ、專ら其力を助けんと思へども、翁も其ころは生計かたく、思ふ程ならねば、力の及べるだけはこれを助け、且つ御同學たりし福知山侯も、淺からぬ恩遇ありて、やがて彼地にいたり、本木榮之進といへる通詞家に寄宿し敎を受け、又彼に問ひ此に謀り、油斷なく修行して歸府したり、爾後は江戶永住の人となる事を得たり、扨嘗て編集し置ける蘭學楷梯といふ書ありしを、歸府の後藏板して同志に示せり、此書出し後、世の志あるものこれを見て、新に憤悱し志を興せしも亦少なからず、此人を生じ此等の書の出る事となりしも、翁が本志を天の助け給ふの一つにやと思ひし事なり、

○此餘我門に出入せしものゝ內、斯業を學び掛りしもの多かりけれども、或は久しく都下に足をとゞむることかたく、或は官途に羈れ、或は生計に逐れ、或は病身或は夭死抔と、みなはかしく事を遂げしもなかりき、然れども翁がこれを發起せしにより、其支派分流を生じ出せしは少からず、扨安永七八年の頃、長崎より荒井庄十郞といへる男、平賀源內が許に來れり、これは西善三郞が舊との養子にして、政九郞といひて通詞の業を爲せし人なり、社中蘭學を興すの最初なれば、翁が宅へ招き、淳庵などゝ共に、サーメンスプラーカを習ひし事もありし、源內死せし後桂川家に寄食し其業を助け、又福知山侯へも出入して、侯の地理學の業にも加功したり、〈侯專ら地理學を好み給ひ、泰西圖說等の譯編あり、〉庄十郞後は他家に在りて、森平右衞門と改名したり、此人江戶へ下りて、聊社中を誘發せざりしにもあらざらんか、今は千古の人となれり、