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Page:Bunmeigenryusosho1.djvu/64

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至れるの功なり、

○石井恆右衞門は、長崎舊との譯官馬田淸吉といふものなりしが、其家業を他人へ遜りて江戶へ來り、天明の中頃白河侯の家臣となれり、侯其初めを知り、ドドニユース本草を和解せしめ、十數卷の譯說成れり、其業を卒へずして是亦異客となれり、稻村某といふ男取立しハルマ釋辭の書は、全く此人の力に賴れり、此譯書は、近來初學稽古の人々考閱の益ありといふ、此人もと舊職業を以て仕官すべしとて、東下せしにはあらねども、斯の如く隆盛の中へ來りし事ゆゑ、專ら此道の助けとなりたり、

○桂川家の事は、前にもいへるごとくなり、甫周君は拔群の俊才ゆゑ、凡そ和蘭の事にも略通し、其名聲四方に走せ、尤常に其業事の起は、公上にも知し召れし事なれば、時々西洋筋の事は和解御用も命ぜられし趣なり、其草稿其家には有べし、和蘭藥撰海上備要方抔云ふ譯說の著書ありと聞ども、未だ成熟の書を見ず、年いまだ六十に滿ずして千古の人となり給へり、

○因州侯の醫師稻村三伯といふ男あり、其國に在りて蘭學楷梯を見て、憤發して江戶へ下り、玄澤が門を扣き此業を學び、後に彼ハルマといふ人著せる言辭の書を、石井恆右衞門に依りて譯を受け、十三卷といふ和語解譯の書を編せり、其始め石井へ介をなし、原書も借し與へたりと、其初稿は宇田川玄隨、岡田甫說といふもの加巧して、時々石井が許に往來して成就せりと、訂正の時に至りては、他に力を添へしものもありとも聞けり、後故ありて侯邸を退き、江州海上郡の邊に浪遊し、遂に名を隨鷗と改め、京師に在りて專ら此業を唱へし由、今はこれも古人となれりと聞けり、倂し釋辭の書を企て成せしは、初學者の爲に一功といふべし、

○今の宇田川玄眞、初めは安岡氏にて伊勢の人なり、江戶へ出でゝ岡田氏を冒し、上にいふ宇田川玄隨の漢學の弟子なりし由、玄隨其才の固密なるを知りて、蘭學に引導せんとの意ありて、每々玄澤へも噂せしことありしとなり、然るに玄隨一とせ侯駕に陪して其國に至りしころにや、養家を辭し本姓安岡に復せし時、玄眞初て師命を含て玄澤が許に來り、此學を習ん事を請ふ、蘭字の書方までは玄隨より習ひ受けしと見えたれば、爲に蘭言譯語の一小册を授けて寫さ