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Page:Bunmeigenryusosho1.djvu/61

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〈り、其根元たる西肥の通詞輩の志をも、大に引立しかと知らるゝなり、〉

○縮圖既に成り、本篇も出版にもなりしかども、前條にいへるごとく、紅毛談さへ絕版となりし程の事なれば、西洋の事は假初にも唱ふる事はならぬ事にや、倂し和蘭は其中にても各別なるにや、否の所不分明にて、屹度これは苦しからずといふ事も決しがたく、若し私かにこれを公にせば、萬一禁令を犯せしと、罪を蒙るべきも知られず、此一事而己甚恐怖せし所なり、然れども橫文字を其まゝに出せるにはあらず、且讀て見れば其姿は知ることなり、我醫道發明の爲なれば、敢て苦しからずと自ら決定し、何れにも翻譯といふ事を公にする初を唱ふべしと、竊かに覺悟を極めて決斷せし事なり、但是は其事の最初なれば、何とぞ此一部恐れ多くも冥加のため、公儀へ獻じ奉りたき志願なりしが、幸ひ同社桂川甫周君の御父甫三君は、前にいへる如くの舊友なりければ、此法眼に謀りしに、其取扱推擧により、御奧より內獻し奉りぬ、斯く障もなく事濟しは難有御事なりき、又翁が從弟吉村辰碩は京都に住居せり、此人の推擧を以て、時の關白九條家幷に近衞准后、同前公、及び廣橋家へも一部づゝ奉りぬ、〈これによりて、三家より目出度古歌を自ら染筆して賜り、又東坊城家よりは、七言絕句の詩を賦して賜りぬ、〉尤時の大小御老中方へも、同じく一部づゝ進呈したり、何方とても何の障れる事もなく相濟みぬ、これらによりて大に此擧に於る安堵をなしたりき、これ和蘭翻譯書公になりぬるはじめなり、

○翁が初一念には、此學今時のごとく盛になり斯く開くべしとは、曾て思ひよらざりしなり、是我不才より先見の識乏しきゆゑなるべし、今に於てこれを顧ふに、漢學は章を飾れる文ゆゑその開け遲く、蘭學は實事を辭書に其まゝ記せし者ゆゑ、取り受けはやく開け早かりし歟、又實は漢學にて人の智見開けし後に出たる事ゆゑ、かく速かなりしか知るべからず、然れども斯業の自然に開くべきの氣運にや、此ころより前に記せる東奧の建部氏、翁には二十歲ばかり長たる翁なるが、不思議に書牘の往復ありしが、我答書を得て實に狂喜啻ならずと申越せし趣なれども、身の老朽を如何せんとて、其息亮策を我門に入れ、續いて其門人大槻玄澤といふ男をさし登せて、我門に入れたり、此男の天性を見るに、凡そ物を學ぶ事實地を踏ざればなすことなく、心に徹底せざることは筆舌