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Page:Bunmeigenryusosho1.djvu/60

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り、素より浮屠氏翻譯の法は辨へず、殊に和蘭書翻譯といふ事は、古今になき所の最初なれば、此讀み初の時にあたり、細密なる所は固より辨ずべき樣もなし、只幾重にも醫たるものゝ先第一に、臟腑內景諸器の本然官能を知らずしては濟ず、何とぞ各其實を辨へて、互に治療の助になさばやと思へるが本意ばかりなり、此志ゆゑ此譯をいそぎて、早く其大筋を人の耳にも留り、解し易くなして、人々是まで心に得し醫道に比較し、速に曉り得せしめんとするを第一とせり、夫故なるだけ漢人稱する所の舊名を用ひて、譯しあげたく思ひしなれども、此に名るものと、彼に呼ぶものとは相違のもの多ければ、一定しがたく當惑せり、彼是考へ合すれば、迚も我より古をなすことなれば、いづれにしても人々の曉し易きを目當として、定る方と決定して、或は翻譯し或は對譯し、或は直譯義譯とさまに工夫し、彼に換へ此に改め、晝夜自ら打掛り、右にもいへる如く、草稿は十一度、年は四年に滿ちて漸く其業を遂げたり、尤其頃は彼國俗の精密微妙の所は、明了すべき事にはあらず、今の如く思ひよらず開けし所より見る人は、さぞ誤解のみといふべし、首めて唱る時にあたりては、なか後の譏りを恐るゝやうなる、碌々たる了簡にて企事は出來ぬものなり、くれも彼大體に本きて、合點の行く所を譯せしまでなり、梵譯の四十二章經も、漸々今の一切經に及べり、是翁が其頃よりの宿志にして企望せし所なり、世に良澤といふ人なくば、此道開くべからず、且翁が如き素意大略の人なくば、此道かく速かに開くべからず、是も亦天助なるべし、

○扨右の如く一通り譯書出來たれども、其頃は蘭說といふ事、少しにても聞及び聞知る人絕てなく、世に公にせし後は、漢說のみ主張する人は、其精粗を辨ぜず、これ胡說なりと驚き怪みて、見る人もなかるべしと思ひ、先づ解體的圖と云ものを開版して世に示せり、是は俗間にいふ報帖ひきふだ同樣のものにてありたり、〈此業江戶にて首唱し、二三年も過し頃、年々拜禮に參向する阿蘭陀便にて、長崎にも聞傳へ、蘭學といふ事江戶にて大に開けしといふこと、通詞家などにては、忌み憎みしよし、左もあるべし、如何さま其ころまでは、彼家々は通詞迄の事にて、書物讀て翻譯する抔いふ事もなかりし時節にて、冷めしをさむめしといひ、一部一篇とも譯すべきエーンデールといふ語を、一のわかれ二の分れと和解し、通じ合ひて事濟む樣なる事にてありしと見えたり、尤醫說內景抔の事に至りては、誰一人知る人なき筈なり、或る一譯士此約圖を見て、ゲールといふものは身體中にはなし、ガルの誤なるべし、ガルは卽ち膽なりと不審せしとなり、但此前後よりして翁が輩、關東にて創業の一擧ありしによ〉