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謂ふ、百人を卒といひ、五十人を兩といふ、此れはこれ車一乘每に士百五十人を用ふ、周制に比してやゝ多きのみ。周は一乘步卒七十二人、甲士三人、二十五人を以て一甲となす。凡そ三甲、共に七十五人。楚は山澤の國、車少くして人多し、分つて三隊となす、則ち周制と同じ。」

 太宗曰く「春秋に荀吳、てきを伐ち、車をこぼち行を爲す、亦た正兵か奇兵か。」靖曰く「荀呉車法を用ふるのみ、車をつと雖も而かも法其中にあり。一を左角となし、一を右角となし、一を前拒となし、分つて三隊となす、此れ一乘の法なり。千萬乘皆然り。臣、曹公新書を按ずるに云ふ、攻車七十五人、前拒一隊、左右の角二隊、守車一隊、炊子十人、守裝五人、廐養五人、樵汲五人、共に二十五人、攻守二乘、凡そ百人、兵十萬を興し車千乘を用ひ輕車二千、此れ大率おほむね荀呉が舊法なり。又漢魏の間の軍制を觀るに、五車を隊となし、僕射一人、十車を師となし、卒長一人、凡そ車千乘將吏二人、多々此れにならふ。臣今の法を以て之れにまじへ用ふ、則ち騎兵を跳盪するなり、先鋒隊、步騎相半ばするなり、駐隊車乘を兼ね出だすなり。臣西の方突厥を討ち、險を越ゆる數千里、此制未だ嘗てへず、蓋し古法の節制まことに重ずべきなり。」

 太宗靈州に幸し、かへつて靖を召し坐を賜うて曰く「朕道宗及び阿史那社爾等に命じて薛延陁を討たしむ、鐵勒諸部、漢の官を置かんことを乞ふ、朕皆其の請に從へり、延陀西に走る、恐くは