Page:Bukyō shitisyo.pdf/74

提供:Wikisource
このページは検証済みです

管仲に任じて復た太公の法を修む、之れを節の師といふ、諸侯畢く服す。」

 太宗曰く、「儒者多く言ふ、管仲は覇臣のみと、殊に知らず兵法は乃ち王制に本づくことを。諸葛亮は王佐の才、自から管樂に比す、此を以て知る管仲亦た王佐の才なるを。但だ周衰へし時、王用ふる能はず、故に齊にりて師を興せるのみ。」靖再拜して曰く、「陛下神聖人を知る此の如し、老臣死すと雖も昔賢に媿はづることなし。臣請ふ、管仲齊を制するの法を言はん、齊國を三分して以て三軍を作る、五家を䡄となす故に五人を伍となす、十䡄を里となす故に五十人を小戎となす、四里を連となす故に二百人を卒となす、十連を鄕となす故に二千人を旅となす、五鄕を一師となす故に萬人を軍となす、亦た司馬法の一師五旅一旅五卒の義に由る、其實は皆太公の遺法を得たるなり。」太宗曰く「司馬法は人々穰苴の述ぶる所といふ、か否か。」靖曰く「史記の穰苴が傳を按ずるに、齊の景公の時穰苴善く兵を用ひ燕晋の師を敗る、景公尊んで司馬の官となす、是に由て司馬穰苴と稱す。子孫司馬氏と號す。齊の威王に至り古の司馬法を追論し、又穰苴が學ぶ所を述べ、遂に司馬穰苴が書數十篇あり、今世に傳ふる所、兵家者流又た權謀、形勢、陰陽、技巧、四種を分權す、皆司馬法に出づるなり。」太宗曰く「漢の張良韓信、兵法を序次す、凡そ百八十二家、要用をけづり取りて定めて三十五家を著はす、今其の傳を失へるは何ぞや。」靖曰く「張良が學