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れるなり、古人此法を祕藏す、故にいつはつて八名を設くるのみ。八陣は本と一なり、分つて八となす。天地は旗號に本づき、風雲は旛名に本づき、龍虎鳥蛇は隊伍の別に本づくといふがごときは、後世誤り傳へいつはつて物象ぶつしやうを設けたるなり。何ぞ止だ八のみならんや。」太宗曰く、「數五に起つて八に終るは則ちしやうを設くるにあらず、實に古制なり、卿試みに之れを陣せよ。」靖曰く「臣按ずるに、黃帝始めて丘井の法を立て、因て以て兵を制す、故に井に四道を分かち、八家之れにる、其形は井の字なり、方を開くこと九、五を陣法となし、四を閑地となす、此れ所謂數五に起るなり、其中を虛にして大將之れに居る、其四面を環りて諸部めぐめぐる、此れ所謂八に終るなり。變化して敵を制するに及んでは則ち紛々紜々、鬪ひ亂れて法亂れず、渾々沌々、形圓にして勢散ぜず、此れ所謂散じて八となり、復して一となる者なり。」太宗曰く「深い哉、黃帝の兵を制するや、後世天地神略ありと雖も、能く其の閫閾こんゐきを出づるなし、此れよりくだつていづれか之れに繼ぐ者あらんや。」靖曰く「周の始めて興るや、則ち太公實に其の法をほどこす、始めて岐都に於て以て井畝を建つ、戎車三百輛、虎賁三千人、以て軍政を立つ、六步七步六伐七伐以て陣法を敎へ、いくさを牧野に陣す。太公百夫を以て師を制して以て武功を成す、四萬五千人を以て紂が七十萬の衆に勝つ。周の司馬法は太公に本づく者なり。太公旣に沒して齊人其の遺法を得、桓公に至り天下に覇たり、