Page:Arai hakuseki zenshu 4.djvu/814

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〈これを身に被きて、前襟にて、ボタンといふ物をもて、左右を鎖す、其たけ長くして地を曳くこと三四尺に至れり、本師より以下、其等位の高下によりて、其たけの長短あり、本師の着る所は、特に長くして地を曳く事數尺、侍者して、これをとらしめてゆく也といふ、〉

其同門の人、北京ペツキンにおもむきしは、其國の人、かしこにゆく事の始にやと問ふに、しかるにはあらず、チイナにも〈チイナとは卽支那也〉初は我法を禁ず、前八十年、其禁すでに除きて、我法ふたゝびかしこに行はる、それのみならず、今の天子、我本國に使して、物を施し入られし、すくなからず、それが中、マルカリイタ七つ迄あり、其大さ、我方にもいまだ見し事を得ざる所也、其報禮には、一度に鐵彈三十を發するトルメンツトムをまいらせたりき、〈マルカリイタは、貝の珠也、その大さ拳のことくなる物ども也、トルメンツトムは、大砲なりといふ、〉されば、當時も、本國の人サンヂヨルヂヨは、ナンケンに居る事、すでに十年、アバツトコルテルは、カンタンにある事、また十年、又スイヤムにても、十八年の前に、我法を禁ぜし事ありき、今は、其禁除きしかば、二年の前に、フランシスクスかしこにゆく、この餘、トンキンにあるもの三人、クチンチイナにあるもの二人、これらは其名を忘れたりといふ、〈サンジヨルジヨ、アバツトコルテル、フランシスクス、皆これ其徒の名、ナンケンは、南京也、カンタンは、廣東也、トンキンは、安南の地也、クチンチイナは、柬埔寨の東にあり、漢譯未詳、〉

むかし、我國に來りて、始て其法を說しものゝ事を問ふ、今を去る事、百二三十年前、彼方の化人に、フランシスクス、サベイリウスといひし、此土に至りて、我法を說く、豐後の屋形、はじめに其敎を信受して、つゐに管下の大名して、はるかに我本國に使せしめ、多くの物を施入せらる、其使、いとけなき子を携來て、我徒となし、歸らむとするに及びて、身死したり、其使葬りしところは、猶今にローマンにあり、其フランシスクス、サベイリウスは、カステーリヤの人にして、ポルトガルの君の師たりしかど、我法の弘通のために東し、此土に來れる事も、再びに至りて、其西に歸れる時、サンチヤンにして終りき、サンチヤンは、チイナ、カンタンの南にある海島也といふ、〈カンタンは、廣東也、サンチヤンは、卽香山縣ヒヤンシヤンケン也、番語、香山の音、轉じ訛れる也、〉

按ずるに、フランシスクスは、漢に波羅ホヲロ多伽兒トヲキヤル人、佛釆釋古者フライシイツクチエといふもの、卽此也、豐後の屋形は、大友左衞門督入道宗麟也、其使せしものは、植田入道玄佐(玄佐、もと淸和源氏にて、渡邊の家をつぎ、又齋藤の家をつぐ、家紋巴なり、其子名虎松、時に三歲也といふ)もとは、美濃國齋藤の族也、天正十二年に、宗麟がために使して、ローマに死す、西人懷にせし册子に、一道人の甁を持て、童子の頂に灌ぐ所を、繪かきし