Page:Arai hakuseki zenshu 4.djvu/794

提供:Wikisource
このページは校正済みです

〈西紅海〉マーレ、ランチードル、〈漢に翻して南海ナンカイ(チアンハイ)といふ〉の諸島〈スマアタラ、ロソン等の國をさす、スマアタラは沙馬大蠟サマアダイラ、ロソンは呂宋ロクソン、猶下に詳に見ゆ〉に至り、北は、タルターリヤ、マーリヤ〈タルターリヤは韃靼ダツタン國、マーリヤは、北にウミといふ、すなはちこれ韃靼ダツタンの北海の事をいふ也〉に至る、○ノヲルト本ノマヽ、アメリカの地、四海のためにかこまれて其西北僅に一路ありて、ソイデ、アメリカの地に相聯れり、〈其東北、海を隔て、すなはちアフリカ西南の地方に相當れり、其東北海をマーレ、テルノルといひ、西海をヲセヤーヌス、ペルヒヤーヌスといふ〉ソイデ本ノマヽ、アメリカの地、東南の方、一路僅にノヲルト、アメリカに通じ、其西南は、マーレ、テルヌルに至り、〈これその南海の名也〉北は、グルウンランデヤに相聯りて、其西北の地、いづれの所に至る事を詳にせず、〈其西北の方は、すなはち日本野作等に當れり、〉其東はすなはち、マーレ、アツトランテイフムにのぞめり〈すなはち大西洋〉

按ずるに、大西洋地球地平等の圖、其由來る所、いまだ詳ならず、大明吳中明、萬國坤輿圖に題して、歐邏巴國中、鏤有舊本、蓋其國人、及拂郞機フランキイ人、皆好遠游、時經絕域、則相傳而誌之、積漸年久、稍得其形之大全といふ、我今大西人に遇ひて、歐邏巴鏤板の輿地圖を出して、其說を問ふに、彼其圖を見てこれ七十年前、ヲヽランデヤ人のチリバメし所なり、其精妙いふべからず、今は西洋地方にも、得易からざる所也といふ、そのヲヽランデヤといふは、卽今我國に歲々朝貢する阿蘭陀國の事にて、萬國坤輿圖に、喎蘭地ヲヽランデヤ則蘭地セヱツランヂとしるして、西洋布地、二島最妙と注せしもの、卽此也、〈喎蘭地は、すなはちヲヽランド、則蘭地はヲヽランドの屬州、セーランド卽此なり〉かくて、此事を以て、阿蘭陀人に問ひしに、昔、本國の人マゴラアンス、もつとも天文地理の學に精しく、また舟を操る事を、兼善くす、六大舶に、衣食器械等の物、ことく載せて、大洋にうかび、萬國を周流す、其舶の風濤のために敗れしあれば、其人物を、各舶にわかちのせて、敗れしものをば、焚棄つ、かゝりしほどに、六年を經し後に、餘す所の舶、たゞ三隻、本國に歸りぬ、此時に至て、萬國山海輿地の說、最詳なる事を得たり、たゞ南方一帶の地と、ソイデ、アメリカの西北の地方は、猶いまだ詳ならずといふ、今其ヲヽランド鏤板の圖に據りて、萬國坤輿圖、幷に三才圖繪、月令廣義、天經或問、圖書編等に見えし所の圖を見るに、此等は、皆其大略をしるせしのみ也、亦按ずるに、萬國坤輿圖に歐邏巴、利未亞、亞細亞、南北亞墨利加の外