Page:那珂通世遺書.pdf/462

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て、驚き怖ぢて、何を爲すべきか言ふべきかを知らざりき。聚りて評議を凝したれども、この事は魔力にて爲さるゝが如く見えて、いかにしてその器︀械より遁れ得べきかの評議は思ひ附かれざりき。彼等は、降らずば我等は皆死なんと言ひて、許さるゝだけの條件にて降らんと決議せり。そこに彼等は、直ちに軍の大將に使を送り、他の諸︀城の爲したると同じ約束にて降りて、大汗の臣民とならんと欲すと云ひ遣り、大將はそれを許しき。かくて城の民は降り、約束を奉じけり。これは、皆尼科羅と馬弗斡と馬兒科との働きより出來たり。それは、小き事件に非ず。この城と州とは、大汗の領する最善き處の一にして、大なる財賦を汗に納むる故に」。

 この談の初に、襄陽の攻圍を宋の滅びたる後とせるは、事實に違へるのみならず、​馬兒科保羅​​マルコポーロ​等の帝都︀に達したるは、早くとも、一二七四年、卽至元十一年の末にして、襄陽の降れる十年二月より一年半餘の後なれば、襄陽の砲擊を​保羅​​ポーロ​三人の功に歸すべき由なし。​馬兒科​​マルコ​の紀行は、大體にては眞實の談多けれども、この一事だけは、西人の何も知らざるを恃みて、​亦思馬因​​イスマイン​等の功を竊みて己等のとしたるは、をかしかりき。​保提額​​ポーチエ​の一本と​喇木梨​​ラムジヨ​の本とに​馬兒科​​マルコ​の名なく、製砲の業を​尼科維​​ニコロ​兄弟二人の働きとしたるに由り、​保提額​​ポーチエ​は、二人の始めて支那に往きたる時、彼の助言助力を爲したるならんと云へり。然れども​馬兒科​​マルコ​の名を除きても、不都︀合の度は少しも減ぜられず。二人の始めて支那に往きたるは、蓋至元の初頃にして、一二六九年卽至元六年に​吠尼思​​ヹニス​に歸りたれば、支那を去りたるは、遲くとも至元五年襄陽攻圍の始れる年より後なることを得ず。二人は、いかで襄陽の圍まれて三年抗禦せるを見ることを得んや。


18。支那の砲術。

 ​裕勒​​ユール​曰く「紀行の一本に、この事の前に、蒙古人支那人は、砲器︀を更に知らざりきと云へり。これは、全く實ならず。力の大なる砲器︀の、遠東に知られざりし趣に聞ゆるこの談すらも、蒙古の史に記さるゝ他の事實に合ひ難く思はる。​塔巴咯惕亦納昔哩​​タアバツカトイナシリ​と名づくる​珀兒沙​​ペルシヤ​の史は、​成吉思汗​​チンギスカン​の​曼札尼奇合思​​マンヂヤニキカス​卽工師長​愛喀呵諾微音​​アイカハノヰン​と一萬の​曼札尼奇​​マンヂヤニキ​卽砲手の軍とを記せり。又​誥必勒​​ガウビル​の用ひたる支那の史も、砲兵の事を記せり」とて​速不台​​スブタイ​の汴京攻擊などの事を引けり。

 金史强伸の傳に、天興元年(太宗四年)中京(洛陽)を守れる時、三月「北兵圍之、東西北三面、多樹大砲。云云、伸又創遏砲、用不過數人、能發大石於百步外、所擊無不中」。​赤盞合喜​​チヂヤンカヒ​の傳、天興元年三月、​速不䚟​​スブダイ​に京城(開封)を攻められたる時、「龍德宮造砲石、取宋太湖靈壁假山爲之、小大各有斤重、其圓如燈毯之狀。有不如度者︀、杖其工人。大兵(蒙古兵)用砲則不然。破大磑或碌碡爲二三、皆用之。攢竹砲、有至十三稍者︀、餘砲稱是。每城一角、置砲百餘枚、更遞下上、晝夜不息。不數日、石幾與裏城平。而城上樓櫓、皆故宮及芳華玉谿所拆大木爲之。合抱之木、隨擊而碎。以馬糞麥秸布其上、網索旃褥固護之。其懸風板之外、皆以牛皮爲障、遂謂不可近。大兵以火砲擊之、隨卽延熱、不可撲救。故老所傳、周世宗築京城、取虎牢士爲之、堅密如鐵。受砲所擊、唯凹而已。云云。其攻城之具、有火砲名震天雷者︀。鐵確盛藥、以火點之。砲起火發、其聲如雷、聞百里外、所爇圍半畝之上。火點著︀、甲鐵皆透。大兵又爲牛皮洞、直至城下、掘城爲龕、間可容人。則城上不可柰何矣。人有獻策者︀、以鐵繩懸震天雷者︀、順城而下、至掘處火發、人與牛皮、皆碎迸無迹。又飛火槍、注藥、以火發之、輒前燒十餘步、人亦不敢近。大兵惟畏此二物云」。又續綱目、端平三年(太宗八年)十一月、蒙古の將​察罕​​チヤハン​眞州を攻めたる時、知州事丘岳は、「爲三伏、設砲石、待之于西城。敵至、伏起砲發、殺︀其驍將。敵眾大擾」。​喇失惕​​ラシツト​の史に據れば、一二五三年(憲宗三年)皇弟​呼剌古​​フラク​(​旭烈兀​​フレウ​)、​珀兒沙​​ペルシヤ​を征する時、大汗​莽庫​​マンク​は、支那に人を遣り、そこより砲手火砲手弩手千戶を招ぎき。その弩手の用ひたる弩には、二千五